大船渡入り

 大津波が押し寄せた後の陸前高田市では、木材を主とした瓦礫が、海岸近くの道路沿いに山積みになっていて、それは茶褐色一色でした。

 これに対し、大船渡は、コンクリートの瓦礫を主とした惨劇の灰色でした。

 この記事を認めようとしていたら、ネット上に大船渡湾に押し寄せた大津波の実況ビデオを拝見することができました。

 地元の方々の証言によれば、この大津波は7度押し寄せ、引いていったそうです。

 このビデオ録画は、その初めの襲来のようでしたが、正確には解りませんでした。

 この襲来から引き潮までの全部を初めて目の当たりにして、その大津波のすさまじさを改めて認識させられました。

 大船渡湾は、幅1㎞、長さ15㎞という細長い内湾であり、その水深は20m前後であり、海の幸が豊かに育まれてきた内湾です。

 大津波は、この内湾の入り口で、その奥にある崖に衝突した後に右(北側)へ曲がり、その内湾を北上していきました。

 この内湾には、北側から大船渡川の水が流入し、そこで栄養やミネラルが補給されることで豊かな漁場が形成されていました。

 なかほどにある赤崎漁協は、赤崎カキの養殖で全国的に有名です。

 この内湾に大津波が押し寄せて高いところでは、約8mの水位の上昇がありました。

 そのビデオ画像では、鉄筋コンクリート建てのしっかりした建物に津波が押し寄せ、二階の一部まで浸水していましたので、この位の上昇は、人々の証言通りでした。

 しかし、この大津波は、内湾を北上し、大船渡市街地に近づいてきたところでは、さらに水位を上昇させました。

 そして、内湾から大船渡川の河口に向かって左に開かれていた市街地を一気に飲み込んでいきました。

 ほとんどの木造家屋は浮かび上がり、それが北の方向に、すなわち大船渡川の河口に流されていく過程で、流されていないコンクリート構造物に衝突して破壊されていました。

 しばらくにすると、今度は引き潮になり、反対に内湾の入り口にむって流れ去るようになりました。

 この流出の際には、ほとんど流れに逆らう構造物がありませんで、より一層引き潮の流れが加速され、さらに破壊力を強めていました。

 この干満現象が七度繰り返されたそうで、これを丘の上でみていたあるお寺の住職であった証言者は、まるで「黒い羊羹」が流れていくようだったと比喩されていました。

DSCN0479 (2)
茜色の大船渡湾の朝焼け

 この色が黒かったという理由は、その津波が大船渡湾の底にたまっていた堆積物を巻き上げて遡上したからでした。

 その内湾に溜まった堆積物を一気に巻き上げて陸地へと戻したことで、大船渡湾の清掃がたちどころに実行されました。

 そのことが予想だにしなかった「吉」を引き出しましたが、これについては詳しく後述します。

 もちろん、この大津波の襲来によってたくさんの人々が亡くなり、そして家屋を失い、その後の生活まで奪われることになり、その損害は計り知れないレベルにまで達していました。

 しかし、一方で、この大津波は、大船渡湾の大規模な清掃を遂行させたのでした。

 一方、内湾の東側(大船渡川河口に向かって右側)においては、左側の市街地と比較すると、海岸沿いの家屋や構造物を除けば、大きな被害はありませんでした。

 その理由は、土地利用を盛んにする広い敷地がなく、すぐに高地が海に迫っていたからでした。

 また、この東側には、内湾の奥に行くにしたがって比較的小さな小島が点々と存在していましたので、これが大津波の進入を防ぎ、その分が、左手の市街地へ一気に流れ込むことになりました。

 この破壊力はすさまじく、海岸沿いに建てられたコンクリート建造物の1階部分はほとんど破壊されていました。

 以前に、大船渡の漁師の皆さんと一緒に食事をしたことがあった川の傍の食堂は跡形もなくなくなっており、その位置を必死で探しましたが、とうとう、それを見つけることができませんでした。

 現地では、漁師や漁協のみなさんとの打ち合わせを済まして(この時の様子がテレビ山口で撮影され、後に放映された)から、車で、その被災の様子を視察しました。

 途中でレールが切れて無くなっていたJR大船渡線、海岸近くではコンクリートの建物しかなく、そのほかはすべて流されて無くなっていました。

 大津波の来襲を車に乗って逃げようとした方々が、その渋滞で命を無くしてしまった道路、避難場所の中学校に集まった人々に津波が押し寄せ、そこから逃れようとして必死に上り上がろうとした斜面、そして、上まで登れずに津波に襲われてしまった、大きな船が陸地にまで運ばれ、立ち往生していたことなど、凄まじい悲劇は、至る所に発生していました。

 しかし、運良く助かった話もありました。

 その方は、大船渡湾が一望できる高台にあるお寺の住職さんでした。

 その日、市街地の海に近くにあるスーパーに買い物に出かけていました。

 地震が発生して、ただならぬ気配を感じた住職さんは、すぐにお寺に引き返そうとしました。

 しかし、いつもはすいすいと通過できるメイン道路が渋滞していて、そこに侵入できないまま待たされていました。

 とっさに、このままでは危ないと思われ、その道路への進入をあきらめて、そこを左折して海岸線に沿った小道を猛スピードで南下し、その寺に上がる道まで辿り着くことができたそうです。

 この機転がなかったら、その十数分後には、ご自分も津波に飲まれていたそうです。

 その住職さんは、そのお寺の下の道路においてたくさんの方々が亡くなってしまったことを悔やみながら、こういっておられました。

 「水に浸かっても、絶対に海水を飲んだらいけません。海水を飲むと眠くなってしまい、気持ちがよくなって、そのまま死んでしまうのです」

 こういわれたことを今でも鮮明に覚えています。

 すでに述べてきたように、大船渡湾は、幅1㎞、長さ15㎞、深さ20m前後ですから、その深さと幅の比は1対50、深さと長さの比は、1対750です。

 巨視的に見れば、非常に薄い潮の流れが、長く上流まで続いています。ここを水位8mの波が押し寄せて、市街地になだれ込んだのです。

 しかし、私が海岸で見た大船渡湾は、当然のことながら、その一部しか視野に入りませんでした。

 そのため、大船渡湾の全体像を把握できず、地図上でしか、それを類推するしかありませんでした。

ーーー もっと高いところから、大船渡湾を遠望できるところはないか。

 そう思いながら、あちこちを探し求めて、山への小径を見つけ、そこを登っていきました。

 その行き止まりのところに、上記の住職さんのお寺が立てられていました。

 そこからは、大船渡湾のほぼ全貌を眺めることができましたので、人知れず感動を覚えていたら、そこに住職さんがやってきて、詳しく、当日の大津波のことを詳しく語ってくださいました。

 その時に撮影した写真を示しておきましょう。

DSCN1453 (2)
震災直後の大船渡湾を望む(最奥部付近、煙突のところはセメント会社)

 
 思わず、息を飲み込むような絶景でした。この煙突のあるやや下手のところに大船渡湾の河口があります。

 手前側の海岸に近い陸地のほとんどの家屋や建物が流され、その後に整地がなされています。

 この最奥部に到達した大津波は、湾の向こう側の高地で遮蔽され、さらに左手の大船渡湾の河口で、その伝搬が閉ざされ、それらの反射が手前の市街地に一気に流れを変えて押し寄せたことで、ここが根こそぎ破壊されたのでした。

 冒頭において、初めて視聴した大津波の襲来の様子は、この写真の右端の部分から撮影されたものでした。

 今も、耳の奥に残っていますが、その凄まじい映像と共に収録されていた撮影者ほかのみなさんの絶望的な嘆声には、深い悲惨さが滲んでいました。

 (つづく)