はじめに(6

  その第3は、マイクロバブル技術が、わが国発のオリジナル技術として海外からも注目されるようになり、さらに、その普及の輪が拡大してきたことにある。この20年における。わが国のマイクロバブル技術研究は、独自の発展を遂げることによって世界をリードできる成果を生み出してきており、今後も、その先駆者としての真価が、ますます鋭く、そして大きく問われることになるであろう。

以上が、マイクロバブル技術の誕生とその後の20年における発展の特徴である。この20年を経過した今日の状況は、当初の一部にあった「この技術は5年程度の短命で終わる」という予測を退け、ますます発展していく様相を強めている。その観点から、マイクロバブル技術の特徴をより深く考察することにしよう。

   以上の青い文字の部分は、前述の「マイクロバブル」に関する専門書『マイクロバブル(ファインバブル)のメカニズム・特性制御と実際応用のポイント』の最終第4章において「マイクロバブル技術の誕生とその発展」の「はじめに」の文章の最後の部分です。

                                   特許戦略の続き

 文部省の科学研究費補助金に採択されることは、ある意味で研究者としての認定がなされたことでありますので、それ自体がめでたいことでした。

 そして、その外部資金は丸ごと自分の研究に使うことができますので、わずかな研究費しか支給されないものにとっては大変貴重な「お金」でした。

 なかには、わずかな研究費のために研究をあきらめてしまう方も少なくなく、そこまでに至ると文部科学省の科学研究費補助金の申請すら行わなくなってしまう事例も多々ありました。

 なかには、学校当局の顔色を窺うことでちゃっかり研究費を授与される者もいて、そのような方に限って、科研費の申請を行わないで済ますという厚かましい勢力もいました。

 単なる偶然とか、思い付きではなく、それが実践的な教育研究の探究から生まれたものであり、高専教員であった私の探究心に火が点けられたからでもありました。

 それはともかくとして、その申請書欄における「特色と独創性」を記述で苦しんでいた私でしたが、その理由は、申請書を執筆している時だけ、それらを考究するという悪い習慣に陥っていたことにありました。

 日頃から、それを探究し続け、そこから独創性を明らかにするという習慣を身につけていなかったことが、小さくない問題だったのです。

 この反省とともに、どうしても外部資金を得るようにしなければ、研究室も我が家も運営できない、何とかしなければならないという切羽詰まった考えに至り、その独創性を実践的に極め、見出していくという洗練性を磨くことに努めていきました。

 こうして、徐々に自らの探究心に火が灯せるようになり、そこからいくつものアイデアが生まれ、それが独創的なものへと洗練されていくことが可能になっていきました。

 今、私の科研費採択実績を調べてみると、研究代表者として11回、分担者として11回、合計で22回の採択がなされています。かなりの数で、こんなに多かったのかと少々驚きました。

 これらの研究期間は、平均で2年を要していると思われますので、単純にその回数を掛け合わせると44年分になります。もちろん、私の大学、高専における研究生活40年を超えてしまいますので、いくつものダブリがあったのだと思います。

 思い出すのは、基盤研究(B)が2つの分野でダブルで採択されたとき、さらには基盤研究(A)が採択されたときであり、大変忙しい思いでこれらを熟していったことを思い出します。

 こうして、ほとんど毎年のように文部省科学研究費を確保できるようになりましたので、研究費で困ることはありませんでした。また、出張旅費は、すべて科研費を使用しましたので、家計に負担をかけることがなくなりました。

 それ以前は、東京出張で4万円、5万円と家内からいただくのが申し訳なく、心苦しい思いをしていました。

                            私の得たもの

特許の代金を私費で払うようになり、それを家計で賄うことができずに、必死で外部資金の獲得をめざすようになりました。

そのために、まずは、文部省科学研究費の採択を狙い、若手の奨励研究から始まって最後は基盤研究(A)まで上り詰めることができました。

その採択回数は22回であり、そのことから、この補助金を得ることが当たり前の姿になっていきました。通常の高専の場合には、このような外部資金の獲得実績があると、それなりの厚遇がもたらされますが、私には、それが一切なく、そのことがさらに補助金確保の意思を強めさせることの採用しました。

また、特許費用の支払いが足かせにはなりましたが、その申請と取得実績が、その科研費採択にも好影響を与えたようで、徐々に悪循環が、それとは反対の好循環へと変化していくことになりました。

これらの一連の研究が、光マイクロバブル技術の研究開発へと徐々に結びついていくようになり、その成果が、民間企業との共同研究へと発展していきました。

こうして、一連の特許を中心にした技術移転の会社を起業化することが検討されました。

この過程で、大学発のビジネス企業がいくつも創設されるようになっていましたので、高専においても、その設立をめざしましたが、それがなぜか実現されませんでした。

無報酬で、時間外に仕事を行うことで、どうかと当局に尋ねると、ダメとは決していいいませんが、「それを認める」とはいわないという「おかしな現象」が起き続けていました。

おそらく、私の起業化を認めたくなかったのでしょうか。それではと、私も、それを乗り越えた「日本高専株式会社」構想を検討したこともありました。

それでも、光マイクロバブル技術の発展のためには、その開発の核となる起業化が不可欠でしたので、当時、1円からでも株式会社を創ることができるようになり、民間企業として株式会社ナノプラネット研究所を設立していただきました。

その初代社長には、大成博音氏が就任しました。当時、彼は山口大学医学部の大学院生でしたので、そのために、その企業化が山口大学発ベンチャービジネス企業として認定を受けました。

そして、この企業に、すべての知財関係の技術移転を行い、ここと協力して光マイクロバブル技術を発展させることに注力するようになりました。

 しかし、このような活動に関して、利益相反の疑いがあるということで、それに関する資料を提出せよと文部科学省の役人がいってきました。

 どうやら、私が高専の教員であったことから、不当な報酬をもらっているのではないか、それが利益相反に当たるのではないかという疑いが持たれていたようでした。

 そして、その書類提出後は、呼び出されて審査を受けました。

 しかし、私は、その技術移転において一銭のお金をもらったことがなく、いかなる報酬もいただいたことがなかったので、その審査員のみなさんも困ったようで、その質問に対して「そのようなことはありません」といい続けました。

その最後は、特許の話になって、利益相反の話から反れて、「このような商品開発を行い、その特許を出したらどうか」という励ましの話にまでなり、聞くことが無くなってよほど困ったのであろうと推測してしまいました。

残念ながら、光マイクロバブル技術を核とした日本高専株式会社の設立までには至りませんでしたが、この起業化の話の検討は、じつにゆかいなものでした。

こうして、株式会社ナノプラネット研究所が設立され、その後、さらに株式会社ナノプラネットも創設され、今に至っていますが、これらを含めて、この四半世紀において、本技術は、世界中に広がり、多くの分野で目覚ましい発展を遂げるようになりました。

もちろん、その発展が必然であったことにも重要な理由がありましたので、次回は、それについて分け入ることにしましょう。

 これで、ようやく「はじめに」の部分を終えることができました。

 この連載、相当なロングランになりそうですね。

(つづく)。

 

DSC_0122 (2)

トナカイさん