はじめに(6)

  その第3は、マイクロバブル技術が、わが国発のオリジナル技術として海外からも注目されるようになり、さらに、その普及の輪が拡大してきたことにある。この20年における。わが国のマイクロバブル技術研究は、独自の発展を遂げることによって世界をリードできる成果を生み出してきており、今後も、その先駆者としての真価が、ますます鋭く、そして大きく問われることになるであろう。

以上が、マイクロバブル技術の誕生とその後の20年における発展の特徴である、この20年を経過した今日の状況は、当初の一部にあった「この技術は5年程度の短命で終わる」という予測を退け、ますます発展していく様相を強めている。その観点から、マイクロバブル技術の特徴をより深く考察することにしよう。

   以上の青い文字の部分は、前述の「マイクロバブル」に関する専門書『マイクロバブル(ファインバブル)のメカニズム・特性制御と実際応用のポイント』の最終第4章において「マイクロバブル技術の誕生とその発展」の「はじめに」の文章の最後の部分です。

わが国発のオリジナル技術

 マイクロバブル技術(後に「光マイクロバブル技術」と呼称)は、徳山高専という地方の小さな高専から誕生しました。

 その経緯と必然性を詳しく解説しておきました。

 単なる偶然とか、思い付きではなく、それが実践的な教育研究の探究から生まれたものであり、高専教員であった私の探究心に火が点けられたからでもありました。

 正直に振り返れば、この研究を開始し、1995年に光マイクロバブル発生装置の性能試験の結果を学会で発表したときには、それがわが国初のオリジナル技術であることをよく理解していました。

 また、それを聞いた学会の会場におられた研究者の方もぽかんとして、何の質疑応答もありませんでした。

 その後の懇親会の席において、みんさんが唖然としていたことをある学会の幹部の方が教えてくれました。

 具体的には、私が、「光マイクロバブルは収縮する」というデータを開示したのに対し、気泡は膨張するが、収縮する気泡を見たことも、考えたこともなく、だれも質問できる状況にはなかった、とのことでした。

 それを聞いて私も、ようやく納得して、その学会の反響の一端を理解することができました。

 そこで、このような光マイクロバブルを発生させることに関する先行的な研究があったのかを調べてみましたが、どこにもそれはありませんでした。

 それは、そうでしょう。

 光マイクロバブルの発生装置がなかったわけですから、誰も研究しようとは思わなかったのです。

 これは無理のないことで、自然のことでした。

 しかし、既往の論文や研究があり、それを調べることで問題点や課題を探し出すという方法論でしか研究できなかった私にとっては、その小さくない戸惑いがありました。
 よく考えてみれば、いきなり新世界に入り込み、気が付けば先頭にいた、孤塁を踏んでいたということを認識させられたのですから、「これは大変なことになった」と思わざるを得ませんでした。
 この世の中に、「光マイクロバブルの研究者は、そして専門家は、私だけだった」ことを自覚し、そうであれば拙い自分を信じて精一杯励むしかない、これが正直な思いでした。
 そんな矢先、私のところに、いろいろな方々がやってくるようになりました。

それらは、ある大手企業の研究所の所長や研究開発部長さんもおられました。

そんな話のなかで、次のようなおもしろい話がありました。

「我が国発のオリジナル技術で世界に誇れるのは、光触媒技術と先生のマイクロバブル技術です。大手の企業が、先生の技術を盗もうとしていますので気を付けてください」

「そうですか。私どもが高専で開発してきた技術を光触媒技術と同じように評価していただき、ありがとうございます。その技術が盗まれないように気を付けます」

                私の特許戦略

その忠告を参考にして、まずは最低限の防御策として特許を申請し、その構築を図ることにしました。

しかし、当時は、特許を申請することになっても、それは個人で行いなさいという国の事実上の方針があり、それは文部科学省の科学研究費を基にした研究であっても、同じように個人で申請しなさいといわれました。

その結果を知らされ、やむなく個人で申請することのしましたが、これに大金が必要であることを知らず、当時の国家公務員の給料では、それを到底賄うことはできませんでした。

すなわち、特許を申請する苦労と共に、その費用を確保する苦労も一緒に背負いこむことになりました。

  実際に、アメリカに特許を申請するときには、家族会議を開き、家内と子供たちに相談したこともありました。その時、子供たちが解らないままに特許を申請することに賛成し、家内もそれに同意したことは涙が出るほどに感動したことを覚えています。

 しかし、この特許費用のことで家族に負担はかけられない、なんとか知恵を絞り、工夫してみよう、これが私の決心でした。

 当時、ロック歌手の矢沢永吉さんが、付き人にお金を持ち逃げされ、大借金を抱えておられ、それをコンサートの会場で堂々と公開し、大借金をかけているから頑張る気持ちになるんだといわれていたことを知りました。

 「そうか、借金したと思い、それを返す気持ちでやればよいのか!」と、よく自分に言い聞かせていました。

 そこで、自分の力で、いわゆる外部資金を得ることを必死になって追求しました。

 まずは、文部省の科学研究費の申請に傾注しました。

とにかく、審査員に「これはよく考えて書いている」という強い印象を与えるにはどうすればよいかを考えました。

「小さい字でぎっしりと、そして丁寧に手書きを行う」ことにしました。

次に、その内容を洗練させる、すなわち、採択されるにふさわしい注目に値する内容にすることをめざしました。

じつは、この申請書書きにおいて、いつも困って、うーんと唸り声を発するほどに滞っていたことがありました。それは、「研究の特色と独創性を記せ」という欄を埋めることができなかったことでした。

 自分が研究しようとする研究の特色が示せない、独創性を述べることができないのであれば、当然のことながら、審査員が、採択のサインを出すはずがありません。その当然のことが、恥ずかしいことに、できなかったのです。

 「ここが最も重要な核心部分だ!」

 ここに知恵を絞ることにしました。

 次回は、その「知恵を絞る」問題に焦点を当てて、より深く分け入ることにしましょう(つづく)。

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孫が作ったクランツ