晩 夏
夕暮れ時、ここちよい風がそよぐなか、久しぶりに家の周りを、カメラを持ってゆっくりと散策しました。
夏の終わりを示すツクツクボウシの蝉の声が、ひきりなしに聞こえていました。
草花や木々は、すでに秋を迎え始めていました。
この向陽台の森は竹の名産地です。細いまますっと上にまっすぐ伸びていくことを特徴にしていますが、これが黄色味を帯びて枯れかけていました。
おそらく、その使命を終えて、来春に新たに芽生えるのではないかと思います。
空も高くなって、澄んだ青空が爽やかでした。
おかげで、よいスナップ写真を何枚か撮ることができました。
その写真を示しましょう。
近くの竹藪
新鮮な魚
さて昨日は、お隣のMさんが、小魚をたくさん届けてくださいました。
知り合いの漁師さんからいただいたものの「お裾分け」だそうで、その朝獲れた新鮮そのもの魚です。
先日の生イリコの「天ぷら」を大切に食べ続け、それが丁度終わったころに届いたので、丁度タイミングのよいことになりました。
その写真を示しましょう。
いただいた小魚
エソ、カナガシラ、ヒイラギなど多彩でした。
最近は、コロナのせいもあって国東安岐港の市場に行かなくなりましたので、このように新鮮、獲れたての魚を目にするのは久しぶりでした。
まずは、すぐに刺身で、2日目は、その刺身をカルパッチョにしていただきました。
これらは高級魚ではありませんが、新鮮さは抜群ですので柔らかくて旨い味を堪能しました。とくに、後者では細切りの胡瓜をマヨネーズ醤油で和えただけでしたが、それで十分においしく、あっという間に平らげてしまいました。
3日目は、ヒイラギの唐揚げが出てきました。
からっと揚げられていましたので香りがよく、骨も柔らかくなっていましたので、そのままバリバリといただくことができました。
ワインにもよく合い、次々に箸が進みました。まことに味がよく、家族に評判の料理でした。
「この唐揚げの味は抜群だね!」
お金を出して、高級魚を買うことはない、必要も感じなくなったこの頃ですが、これで十分に魚料理を楽しむことができました。
これこそ最高水準の「ゆかい」といえますね。
さて、ここまではよいのです。
しかし、いつも頭を悩ますのが「お返し」の問題です。
今回は、家内が赤飯をおいしく炊いて持って行きました。
これが大好評で、これからも「この手があるな」と思いました。
地元産の白兎米と呼ばれるもち米の赤飯でしたので、なかなか味わえない赤飯でした。
「何のお祝いですか?」
こう尋ねられたそうで、「主人の誕生祝い」と返答したそうです。
この季節、8月6日の広島、9日の長崎、15日の終戦と続きますが、その最後者において私は生まれたそうです。
2020年日本と世界の夏は、コロナの夏でした。
これを未だに「第二波」とはいえないことも愚かですが、その程度の次元で為政がなされていることは不幸の極みと考えてよいでしょう。
そのかれらは、このような小魚を食べたことがないでしょう、そして、その格別においしい味を知ることはないでしょう。
しかし、そのコロナのおかげで、ここ40年間吹き荒れてきた「新自由主義」がもろくも瓦解し始めました。
この場合、「新自由」とは、このような小魚を食べたことがない方々の「自由」のことです。
最初の100年間における「自由」は、かってに子供と女性を働かせて儲ける「自由」であり、それが、次の100年でできなくなったことから、かれらのために「新自由」という名前が付けられました。
その新自由主義の寿命は約40年で終わろうとしています。
歴史は加速度的に展開していますが、そうであっても、小魚の旨さは、少しも変わることがないでしょう。
(つづく)
この場合、「新自由」とは、このような小魚を食べたことがない方々の「自由」のことです。
最初の100年間における「自由」は、かってに子供と女性を働かせて儲ける「自由」であり、それが、次の100年でできなくなったことから、かれらのために「新自由」という名前が付けられました。
その新自由主義の寿命は約40年で終わろうとしています。
歴史は加速度的に展開していますが、そうであっても、小魚の旨さは、少しも変わることがないでしょう。
(つづく)
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