コロナ感染症時代が進行しています。

 この下で、世界の激変
「ウルトラ・パラダイムシフト」が起こり、石ころのように転がり落ちています。

 この石ころには、その転がるスピードが速いために、決して苔はむしません。

 もともと世界経済は後退局面に入り、不景気の様相を呈していました。

 これに追い打ちをかけて転がし、落としたのがコロナショックでした。

 人やモノの流れが停止させられ、実体経済そのものが打撃を受けました。


 そのなかで、最も大きな影響を受けたのが航空業界であり、海の向こうのアメリカでは、航空大手の大リストラが始まるそうです。

 日本でも、2大大手の航空会社が相次いで来年度の新規採用を止めました。

 おそらく、この程度の措置では収まらず、アメリカ大手と連動しての大リストラが始まる恐れがあるのではないでしょうか。

 この航空会社を含めて、日本の産業は、どうなっていくのかが気になり、少し調べてみました。

 あるメディアによく出てくる経済学者の口癖は、「日本の産業はボロボロになってしまった」です。

 なぜ、そんなにボロボロ状態になってしまったのでしょうか?

 今回のコロナショックで、さらに、ぼろぼろになっていくことが予想されます。

 これは、わが国の命運に深く関係していますので、大いに気になる問題です。

 たとえば、自動車がさっぱり売れなくなりました。

 逆に、みなさんがよく利用し始めたのが自転車です。

 「三密」の典型のひとつである満員電車やバスの通勤よりも、自転車の方が安全で健康的であることは自明のことです。

 日本国内における自動車の生産は、トヨタで300万台、その他の自動車会社の生産量は、トヨタの3分の1以下です。

 このことからも明らかなように、トヨタの帰趨によって、わが国の自動車業界の将来が決まってしまうのです。

 しかも、これは自動車業界だけのことではなく、トヨタの自動車の国内生産が、日本経済全体にも小さくない影響を与える存在にまでなっています。

 そのトヨタは、トランプ政権の要請に基づいて、今後5年間において1000億ドルの投資をアメリカ本土において行うことを宣言しています。

 そのアメリカトヨタが、コロナショックでアメリカのFRBから多額のドル借金を行っているというネット情報もあります。

 一方、今や世界の自動車生産のトップは中国であり、2781万台です。

 これは、アメリカでの生産台数の2.5倍に相当し、今や中国は、自動車の生産においてダントツの世界一の国になっています。

 日本企業も中国に進出し、トヨタ、ホンダ、ニッサンなどの大工場が武漢を中心にして林立するようになりました。

 今回のコロナショックによって、トヨタが中国から撤退することを決め、この撤退の経費の3分の2を政府が補償するという情報もあります。

 その後、かつてスズキが工場を構えた重慶や武漢が大洪水で浸水したこともあり、中国の自動車工場は、さらに深刻な被害を被っています。

 しかし、これらによって中国の自動車生産世界一が揺らぐことはないでしょう。

 すでに、自動車開発の中心は電気自動車に移行しており、この生産が増え、海外輸出を行うようになれば、日本の自動車業界は壊滅するという話まで出てきています。

 日本の企業には、その備えがあるのでしょうか?

 日本の産業衰退の最大要因は、この自動車業界の趨勢にみられるように、製造業の衰退にあります。

 かつて製造業のGDPは、1990年頃で120兆円を超えていましたが、いまでは90兆円程度にまで低下しています。

 しかも、2010年ごろからは、その1位をサービス業に譲っています。

 かつて80~90年代においては、サービス業の2倍にもなってダントツの1位であった製造業が、このように著しく低下してしまった原因は、どこにあるのでしょうか?

 この原因を深く究明しないかぎり、そこから再生していく道を探し出す、そのための勇気が湧いてくることはありません。

 おそらく、今尚、
猛威を示している今回のコロナショックによって、この衰退の流れは、弱められるどころか、より一層強められることでしょう。

 その災禍にある大企業、そして中小企業のみなさんも必死で、そこからの抜け道を探されているはずです。

 そのために、今や「崩壊」とまでいわれるようになった「日本の電機産業」の変貌について考えてみることが大切です。

 高専は、かつて日本の製造業を支える人材の養成機関として設立され、その50年余の歴史のなかで、その設立目的をまじめに達成してきました。

 その製造業が、この30年において音を立てて衰退し、今やその部門においては「崩壊」過程を迎えるまでに至っていることは、高専と高専教育、技術者教育においても小さくない問題といえます。

 そして、この衰退や崩壊のなかで、高専の備えはできているのか、その荒波を乗り越えて航海できる羅針盤は用意されているのか、これらが真正面から問われているのではないでしょうか。

 その問題意識を得て、本記事を連載してきましたが、その帰結的命題は、「真の技術開発で打開していくしかない」という思いでした。

 かつては、「高専では研究開発や技術開発はできない」、「それは大企業でしかできないことであって中小企業でも難しい、ましてや高専では不可能だ!」と、企業出身の高専の先生がよくいっておられました。

 このような発言を耳にして、「そうかもしれない、そこまで到達できた実績がない、それをやり遂げる環境が整っていない」、「わずかな研究費で何ができるか」、「学部生、大学院生もおらず、スタッフがいない」などと、私も、その隙間において同調していました。

 これは、世間でいう「自己満足であり、言い訳にすぎない」ことでした。

 私が博士号を取得し、教授になったのは39歳でした。何か教授らしい仕事をせねばと思いました。

 早速、地域貢献を行うセンターを看板1枚でよいから、すぐに創りませんかと提案すると、校長は即座に「やれ!」と命を下しました。

 「地域協力開発センター」が、その発足時の名前でした。

 ここで、私が、まず率先しておこなったのが企業訪問でした。

 途中からは、カメラとテープレコーダーを持参して、本にしたいといいましたので、相手からはずいぶんと警戒されました。

 それでも最後には仲良くなり、私の高専のファンが、それこそ、100名、200名規模で増えていきました。

 その最初のお披露目イベントを開催したところ、そこに300数十名の地元企業からの参加があり、これに驚いたのが当時の高専のトップと幹部たちでした。

 その後、この交流が深まっていくうちに、「じつは、この問題で困っている、なんとか解決できませんか」と相談を受けるようになりました。

 この相談に丁寧に応えていたことが、さらに頼れる存在としての認識を深めたのでしょうか、その相談者がしきりにやってくることになりました。

 なかには、とても熱心な中小企業の社長さんが、ひねもすやってくるようになり、それによって私は、中小企業の現状と課題をより深く学ぶことができました。

 これらの活動が地域のトピックス的話題となり、それが新聞記事に数多く掲載されるようになりました。

 その多彩な新聞記事のファイルを梃子にして、「テクノセンター」の設置を文部科学省にお願いしたら、これが即座に認められ、当時としては最大規模のセンター400㎡の設置が認められました。

 ここを「テクノリフレッシュ教育センター」と名付けました。

 地元の中小企業のみなさんからの相談や依頼はますます増え、このセンターを舞台にした活動が広がりました。

 そして、地元の中小企業のみなさんと仲良くなり、親しく交流するようになればなるほど、私のなかに、ある種の「悔いと反省」が髣髴と湧いてきました。

 それは、私には技術開発の経験がなく、どのようにすれば、それを成し遂げることができるのかがほとんど解らかなかったことでした。

 いわば、「技術開発とは何か」を知らず、それゆえに「技術開発の心」を少しも宿していなかった「若造だった」のでした。

 本記事の主題の原点を辿ると、そこまで行かざるをえませんので、あえて、そのことを振り返ることにしました。

 「技術開発とは何か」を知り、「技術開発の心」を実践的に鍛え、どこまでも洗練させていくことがとても重要でした。

 以来30年余、その修業が続いています。

(つづく)

matuba-67
松葉