前回の記事は、読みごたえがあったという感想をいただきました。

   ぜひとも、高専関係者のみなさんに読んでいただくとよいという希望も示されていました。

 コロナショックで、世の中が大きく変わり始めました。

 このなかで、これからの技術開発、商品開発の在り方がどんどん変貌を遂げていくでしょう。

 当然のことながら、高専教育や技術者教育の未来も本質的な転換を迫られることになるでしょう。

 それらを大いに深掘りしていきたいと思います。 

 さて今回のコロナショックは、先のリーマンショックと異なる構造を有しています。

 リーマンショック:金融恐慌⇒産業恐慌⇒生活恐慌

 コロナショック:生活恐慌⇒産業恐慌⇒金融恐慌

 このように、この両者における恐慌の構造的特徴は大きく異なっています。

 前者においては、商人によって「架空の需要」がでっち上げられ、不良債権が、あたかも安全で高利の債権として売買され、その極限においてバブル経済が弾けて、金融機関が倒産に追い込まれました。

 その金融恐慌が、時を経て産業の衰退・恐慌に至り、最後には生活の困窮・恐慌に向かいました。

 しかし、今回のコロナショックは、いきなり実体経済を直撃して、その売り買いを停止させました。

 この実体経済破壊が、生活の隅々で大規模に発生し、それが時間の経過とともに巨大な負債として膨張し始めています。

 不幸にも、このショックが、世界的経済不況、石油価格の暴落のなかで同時発生し、地球レベルの恐慌がわずか数カ月の間に形成されてしまいました。

 その結果、これまで世界中を席巻してきた「今だけ、お金だけ、自分だけ」に象徴される新自由主義が、その根元から崩れ始めました。

 すなわち、「命よりも経済(お金)が大切である」から「お金よりも命や生活がより大切である」というパラダイムシフトが起きたのです。

 また、金持ちよりも貧困層・貧困地域でより深刻に感染が広がっているという「コロナ格差」が顕著に現れています。

 これを助長させたのが、新自由主義の下で徹底して行われてきた医療機関や保健所の大幅削減です。

 その典型がイタリア、スペインであり、日本も、この削減が今尚続いています。

 400余りの公立病院が名指しで、そのリストラ、統合を国から事実上強いられ、その予算案がコロナ予算よりも先行して先の国会で承認されました。

 そのことを国会で指摘されると、加藤厚生大臣は、それはコロナと関係なく押し進めるという居直り姿勢でシャーシャーと答弁していました。

 そこには、誠実さも真剣さもなく、その場しのぎのゴマカシしか見て取ることができませんでした。

 このうつろな姿勢は、担当大臣だけではなく、その政府のトップも含めての共通の際立った特徴であり、それを簡潔に表せば、

 「危機感がない、真剣に立ち向かう気力が消え失せている」

といえるでしょう。

 このようななかで、非常にふしぎで深刻、重大な現象を指摘せざるを得ません。

 それは、この深刻な国難のなかで、日本のあらゆる英知を結集させて、いわば救国の技術開発を行おうとしないのか、大学や高専、公立の研究機関は、そのために、大規模な特別プロジェクトを結成して、その協力を、なぜ国民に仰がないのか、という問題です。

 今回のコロナ災禍(「パニンデミック(パンデミック+パニック)」)によって大学や高専は授業なしになっていますが、それと同時に研究行為も停止になったわけではないはずで、ここはすべての研究機関や学会、教育機関などが、この災禍にどう立ち向かい、どう克服していくかを研究していく必要があります。

 なかでも、重要で不可欠なことは、その災禍を克服できる新技術を開発することです。

 おそらく、今回のコロナ災禍は、それを持続的に発生させる社会的構造的なものであり、新自由主義が蔓延る資本主義の世の中が続く限り、これから手を変え品を変えて人類を襲ってくるでしょう。

 その意味で、この課題は、不要不急と真反対の「必要必急」なのであり、ヒトと産業のための「命と健康の『ものづくり』イノベーション」を持続的に発展させることに関することなのです。

 この技術開発のニーズは、至る所にあるはずです。

 そのニーズ探索において重要なことは、その現場を直に触れ、そこに分け入って深掘りし、新たで重要なニーズを発掘していくことです。

 このニーズ探索においては、大学も高専も関係ありません。

 かえって大学には見えにくく、高専だから観えてしまうというニーズもあります。

 その先駆的探索事例が「光マイクロバブル技術」です。

 この小さなT高専で生まれた技術が、日本全体に広がり、今では世界中で普及し始めました。

 これは、この技術には、それを拡大させる普遍的な原動力があるからであり、この力こそが、いとも簡単に国境を越え、その地に定着させていくのです。

 たとえば、今回のコロナ災禍における近未来において危惧されている問題の一つに食糧問題があります。 

 東北アフリカでのバッタの大発生、中国西南地域での異常渇水(200個以上のダムが枯渇という報道もある)、東北部の異常積雪(黒竜江省では1m以上の積雪があったことや新たなコロナ封鎖が行われているという報道もあり)などが明らかになっています。

 この食糧危機に備えて、世界中の人々が自分の畑を持って農作物を育て始めた(セルフ・ガーデニング)を開始したという報道もあります。 

 これこそ、食糧危機の到来を予感して自己防衛を図ろうとする地球規模の流行ではないでしょうか。

 では、食糧自給率38%の日本は、どうでしょうか?

 スーパーには、常に野菜や肉が店頭にずらっと並べられているので心配ない、ここで品不足が起こることはない、と思っておられるのではないでしょうか?

 それは、日常的に購買を行っているスーパーが目の前にあるからであり、そこで品不足が起こることを考えたことがないと思っておられるから、安心されているのだと思います。

 しかし先月、これとは、ちょっと異なる現象に遭遇しました。

 そこは、大分県宇佐市にある道の駅「院内」で見かけたことでした。

 ここには、一切の野菜が店頭に無く、あるのは蕨(わらび)がわずかに並べられていただけでした。 
 
 おそらく、これは、この道の駅を訪れる客が激減し、野菜の購入がなくなり、そのために農家が出荷を停止したからなのでしょう。
 
 訪問客が増えると、野菜が店頭に並ぶようになり、売り買いが無事再開する、これがよい方向で推測される淡い期待です。

 しかし、本当にそうなのか、私は長期的視野に基づくと、必ずしも、このような事態に至らない可能性があるのではないかと推察しています。

 人の交通が停止し、これまでのように道の駅に来られるお客さんの数がかなり減少していく可能性があります。

 せっかく農家が農作物を丹念に作って出荷しても、それが購入されない、利益が得られないということになると、農家の意欲が無くなって農作物を栽培しないようになる可能性が生まれるのではないでしょうか。

 農家のほとんどが高齢者であり、その高齢が理由になって農業を維持できなくなる可能性があります。

 おそらく、ギリギリの状態で農業を継続されてきたのでしょうから、このコロナを契機として農家を廃業する事例が少なくないのではないかと心配しています。

 しかし、ここには、有り余るほどのニーズが横たわっています。

 ここを深掘りすると、次の新ニーズを見出すことができます。

 ①高齢者であっても、少人数での農作物の栽培ができ、家族経営を可能にする。

 ②小規模であっても、十分に採算性を確保できる付加価値型農業を可能にする。

 ③国民の命と健康を下支えする安全安心のおいしい農作物を提供することができる。

 ④これからの新規参入者においても、簡単で学びやすい新たな農業技術の教育を確立する。

 このニーズをより具体的に究明していくと、どのような深堀が可能になるのでしょうか?

 これらの課題を高専教育において、どのように受容すればよいのでしょうか?

 そして、このブレイクスルーを可能にする技術開発とそのイノベーションを、どう起こせばよいのでしょうか?

 次回は、それらの深掘りの世界に分け入ることにしましょう(つづく)

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5月の若葉