国東半島は、昔から降雨の少ないところです。

 国東の年平均降雨量は1699㎜、大分県は2200㎜ですので、県内でも雨の比較的少ない地域といえます。

 そして、この半島には大きな川もなく、水の確保には昔から苦労をなさってきたのでしょう。

 この苦労が実って、国東半島には、たくさんのため池群が造られることになりました。

 農家にとって水は必需品であり、これなしには生きていけないものでした。

 その大切な水を確保するためにため池を造り、その越流水が小さな川になって海まで流れていきました。

 このため池群が、世界農業遺産の認定を受ける一つの要素となりました。

 周知のように水は、谷の一番低いところを流れていきます。

 そこには川に隣接して田圃が造られ、そこでの稲作が生きていく糧でしたので、そこに住居を建てるわけにはいきませんでした。

 そこで、住居は、その田圃を囲む丘の麓に、すなわち、田圃と丘の中間地帯の斜面に建てられました。

 これだと田圃の面積を確保できますし、さらに良かったのは、その丘の麓から水が湧き出てくることもあり、容易に飲み水を得ることができたのです。

 しかし、中には、その丘から水が湧き出てこないところもあり、その場合には、水源を探し回るか、地下水を掘り当てるしかありませんでした。

 狭いながらも、谷の中央部に田圃を開墾し、その上流にため池を造って水を確保することで稲作を営んできました。

 真面目に、ひたむきに稲作に打ち込んだのでしょう。

 丘の麓に立ち並んだ家は、いずれも大きく立派であり、一つの谷であっても数百メートルごとに立派な寺院が建てられています。

 米の豊作を背景にして、これらの立派な寺院建立の支援がなされてきたのでしょう。

 とくにかく、その寺院の多さに吃驚するほどで、いつしか、この寺院巡りをしたいなと思っています。

 その水確保の名残なのでしょうか、今では多くの家で地下水を汲み上げるボーリング給水のシステムが配備されています。

 この深さは、およそ30m前後です。

 太古の昔は、国東半島の中央部の両子山群が、激しい活火山活動を行っていました。

 これによって、その溶岩が四方に流れ出し、今の国東半島が形成されていったそうです。

 この溶岩を主体にした岩や礫によって硬い岩盤層が形成されましたので、国東半島全体の地盤が強固になり、地震が来ても、ほとんど被害がないという安全地帯ができあがりました。

 たとえば、国東半島の近隣において地震が発生しても、その地震が伝搬して過ぎていった遠くにある地域の方がその被害が大きいという現象が発生しています。

 さて、国東半島の水はどうでしょうか?

 この半島の中心部に両子山があります。

 標高720m、真に低い小さな山です。

 しかし、国東半島にとっては、この低さ、小ささがとてもよいのです。

 たとえば、阿蘇山と比較してみましょうか。その標高は1592mですから、両子山の約2倍の高さです。

 阿蘇山は、今も噴煙を上げている活火山であり、その大規模な噴火によって広大な外輪山が形成されています。

 この外輪山よりもやや大きいのが国東半島です。

 この阿蘇のように、大きな噴火口を有して大規模な噴火を繰り返したのではなく、比較的小さな噴火口を有しながら、しかし、持続的に噴火を行って、四方に、その溶岩流を噴き出し、今の円状の国東半島を徐々に形成させていったのだと思います。

 その四方に広がった丘状のものが、その溶岩流が流れていった跡であり、それが六郷を形成させていったのです。

 この六郷は、それを挟んだ丘によって囲まれていたために、丘同士を横切るのではなく、海に向かっての交通路や田圃の開拓がなされいったのだと思います。

 食物が乏しい時には、海に行けばよく、その距離が短いことも幸いしていたのでしょう。

 さて、水が両子山群によって形成された森に沁み込み、地下水として流れていきました。

 もともと、ここには人家がなく、昔の自然のままですから、水が汚れることはありません。

 二子山の麓から湧き出ている走水観音湧水を味わえば、そのピュアな水のおいしさが解るでしょう。

 この水が地下に沁み込み、下流にゆっくりと流下していったのです。

 この地下水流出のルーとは2つありました。

 次回は、これらのルートの解説を行いましょう(つづく)。
 
hutago
            両子寺の仁王像(国東市ホームページより引用)