S先生は、口腔外科学の権威であり、その分野の国際学会の会長をなさった方でした。

 その専門の分野においては、常に学問的研鑽を重ねられる一方で、現場の病院においては、すばらしい手術をなさっておられました。

 この手術と治療によって助けられた患者さんが少なくなく、先生にお礼の手紙や贈り物がいつも届けられていたそうです。

 「忠恕(ちゅうじょ)」、これは、第37回大分県病院学会において示されたメインテーマでしたが、国東の医者の息子として生まれた三浦梅園が身に付けようとした精神でもありました。

 専門的には、常に厳しく学び、研究を行なう一報で、患者さんには思いやりの心をもって尽くす、これが「忠恕」であり、S先生は、それを最後まで追及された方でした。

 それゆえに、晩年の先生の一挙一動には、その思みと深さがあり、それが魅力的でした。

 「これから、たっぷりと毎日、先生と語らって過ごせますね!」

 こういいながら、それを楽しみにしていたのですが、それはわずかな歳月のなかでしか実現できませんでした。

 その先生の人格を偲ばせることが、先生が遺された清川妙著の『兼好さんの遺言』のなかの一節にありました。

 それは、「非家の人、道の人」という一節でした。

 前者は、今の言葉で「素人」のこと、後者は「専門家」のことを意味します。 

 ここで兼好法師は、「道の人」は、必ず「非家の人」に勝つ、と述べています。

 その理由は、「道の人」は、その専門のことを常に注意深く学び、最大の配慮を払って実験をしている、それゆえに、どうすれば成功し、なぜ、失敗するかも解っているというのです。

 逆に「非家の人」には、その注意力と全体を観る俯瞰力が足りないのです。

 今日のトピックスに照らせば、この「非家の人」がやたら表に出てきて、さも専門家のようにいう姿が溢れています。

 ここが恰好の追求点になりますので、ちょっと賢いメディアが、そこを突く、これを視聴者が「なるほど」と感心する、しかし、感心はしたものの不安は募る、この図式になっています。

 また、「私は募ったが、募集はしていません」という宰相の国語力が、その背景に横たわっているから、ますます混乱が深まる、こうして何もかもが壊れていく、この事態は深刻です。

 ここには、「道の人」への信頼がなく、また、その「道の人」が、その「非家の人」たちをリードする信念と優れた統率力に劣るという本質的問題もあるように思われます。

 この一節を読み、私も反省しました。

 これからは、むやみやたらに「素人ですから」という気休めの言葉を発することは止めよう。

 その素人が、専門家の領域に入って考え、行動するのであるから、そんなに安易に済まされることではないはずですので、今後は、それを改めます。

 これから、日本社会は、未曽有の「命、生活、経済」における危機を迎えるかもしれません。

 しかし、これは世のなかが大きく変わるチャンスが生まれる時期でもあります。

 明治維新、終戦の日などに匹敵する大事件が起こりうることを想像し、ここはむやみに出歩くことを止めて、しばし、沈思黙考の日々を過ごすのがよいように思われます。

 ここは、腹をくくって、この大事件における対処法に関しての知恵と工夫を明察することにしましょう(つづく)。
 
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弘法大師像(清水寺)