昨夜は、わりと早めの就寝でしたので今朝は早起き、新聞をゆっくり読んでから、このところ日課となっている『おしん』と『スカーレット』のテレビ小説を拝聴しました。
これらの時代背景が、丁度繋がっているのがおもしろく、しかも女性が頑張っている姿がすばらしく、朝の楽しみのひとつとなっています。
さて、この数日間なにかと忙しく、タイムリーにブログ記事を執筆することができませんでした。
30日は第51回マイクロバブル研究会があり、翌日は第42回光マイクロバブル技術特別セミナー、11月1日は中津市の歯科医に出かけました。
これらについては別稿において詳しく報告する予定です。
また、この数日間は10日からの沖縄行きの準備に追われていました。
それも昨夜のうちにようやく山を越え、沖縄行きが楽しみになってきました。
そんななか首里城正殿ほかの焼失の報に接し、絶句しました。
ここは、私が琉球大学の教員時代に毎日通ったところでしたので、この時の思い出が一気に浮かんできました。
私がいた理工学部土木工学科のビルは、守礼の門から正殿の方に向かって歩いて約30mの右手にありました。
さらに進むと、教育学部、経済学部、法学部のビルが右手に並んでいて、その突き当りの正面に大学本部があり、ここに正殿が建立されました。
当時、この本部には何もなく、入ってすぐのところに生きたハブが飼われていて、それを見に行ったことがありました。
また、この奥には農学部がありました。
この本部から農学部に至る途中に南に折れる小さな道があり、ここを通って行き帰りをしていました。
ある夜、確か朝の3時頃だったと思います。
土木工学科ビルの研究室で遅くまで仕事をして、いつものように階段を下りて帰っていたら、目の前にハブが動いているのを見つけました。
ハブが猛毒を持ち、飛び掛かってくると聞いていましたので、まさに吃驚仰天しました。
幸い、そのハブは、私と同じように階段を下りていましたのでハブと対面することはありませんでした。
日当たりがよく、石垣があって、水がよく出ているところにはハブがよく棲んでいて、この首里城は、ハブの絶好の住処だったのだと思います。
それが証拠に、この石垣では大きなハブが死んでいたのを見たという話を聞いたこともありました。
因みに、私が住んでいたアパートのすぐ隣には瑞泉泡盛酒造のすぐ隣で、泡盛の原材料であるタイ米を炒るときの香ばしい匂いが、ここちよく漂っていました。
こうして長い間、生活と仕事をしてきた首里城跡でしたので、そこに建立された正殿ほかの建物は、沖縄の県民のみなさんとともに、とても誇らしい存在でした。
とくに私が関心を持ったのは、首里城正殿に敷かれていた「琉球畳(りゅうきゅうだたみ)」でした。
それを正殿のどこかで見つけ、たしか、手で触ったことを記憶しています。
古くは、この琉球畳が沖縄で製造され、この正殿にも広く敷かれていたそうで、その上で会議や儀式がなされていました。
当然のことながら、この畳の材料は沖縄で生産されていました。
江戸時代に、大分県にあった杵築藩の侍が、密かに、この苗を持ち帰って国東半島に普及させました。
それから約400年が経過し、それが栽培され続けて「七島イ」として現存しています。
しかし、今の沖縄には、この七島イがなく、代わりに「ビーグ」と呼ばれる植物が栽培されています。
私は、7年前に国東に移住してきて、その翌年から、この七島イの栽培研究を行い、それが今も続いています。
きっかけは、今や全国で唯一の七島イ生産地となってしまった国東において、その栽培農家が激減し、その絶滅が危惧されるほどの風前の灯状態になっていますので、その再生をどうしても実現せねばと思ったことにありました。
おかげで、丸5年の研究期間においてさまざまな究明がなされましたが、未だ、それを再生に向かわせるほどの量産化技術の開発には至っていません。
関係者のほとんどの方々が、この再生に挑戦されたにもかかわらず、その成功には至っていない難しい課題だと思います。
しかし、その一方で粘り強く研究開発を行なうなかで、それが困難な理由が明らかになることによって、その解決法も徐々に見え始めてきました。
その成果を踏まえ、研究開発から事業化へ、現在は、その課題に向かう過程といってよいでしょう。
この課題についてこれまは、これまでにも少なくない方々が関心を持たれて集まってきましたが、それが薄れると自然に引き潮のように退かれていきました。
これも世の常なのでしょう。
それも、ある意味で自然なことですので、また好転すれば満ち潮のように接近されてくるのではないでしょうか。
しかし、当事者の私は、このような潮の干満によってあっちこっちと揺れることはできません。
ここは、心の命ずるままに前に進んでいくしかないのです。
そして、その暁には、その苗を沖縄に返し、その母国で七島イを育てて、再び首里城の正殿ほかに「琉球畳」を敷設していただくことにしましょう。
暗闇のなかで西風に煽られて燃え続ける炎を見ながら、私は、この「琉球畳」の再生を想起することができました。
この想起において、七島イ研究の「孤軍奮闘」も、「そんなに辛いものではない」のではないかと思えるようになりました。
少しもひるまずに、今日からますます粘り強く「私の七島イ研究」を続けていくことにしましょう(つづく)。
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