第4のエピソードは、次の4つの視点を明らかにしたことでした。
これらは、今となっては当たり前といってもよいことですが、これをきちんと明らかにして、堂々と示すことには小さくない意義がありました。
①高専30年の総括を踏まえて
②高専成長論の立場に立って
③高専危機論の解明を踏まえて
④運動論の視点を踏まえて
①では、高専の30年を振り返って、高専の当局者たちは、なにか矛盾が深まると高専の制度論を検討することに終始してきただけで、その矛盾を高専の内部から根本的に解決してこなかったことが指摘されています。
また、多数の高専があるなかで、一つでも優れた実績を示すことができた高専が輩出しなかったことには小さくない問題があり、そこには、高専を持続的に発展させる方法が明らかにされていなかったことが指摘されています。
②では、高専を持続的に発展させるために、その長所をより生かしていくことが強調されています。
そのために、次の根本問題の克服が明記されています。
「高専における根本問題は、『校長先決体制』のもとで自治意識の成長を阻害され、高等教育機関でありながら、教育と研究を分断する様々な論理が持ち込まれたことにあり、唯一開かれていたいたのは、大企業を中心とする学生供給の道であった。
このことは、卑屈なまでに高専を保守的、閉鎖的にし、高専生の自主性、創造性を欠如させる傾向を促進させた」
これについては、誤解が生じないように、より詳しい解説を加えておきましょう。
「校長先決体制」とは、高専内のすべての権限を校長が持ち、教職員や学生の自治の一切を認めないという前近代的な思想の下に、この権限を徹底させる教育運営体制のことであり、この弊害によって高専教職員や学生の自治意識が萎えてしまうという弊害的特徴を有しています。
また、高専は高等教育機関でありながら、研究機関としての認知を受けていません。
高専生、専攻科生、教員が、いくら素晴らしい研究を行っても、それは教育機関における行為なのです。
しかしながら、教員の昇格においては、高レベルの研究実績が問われるのです。
実際、日々進歩していく科学技術の成果を取り入れて研究を行っていかないと、卒業研究や専攻科の特別研究の指導は、すぐに時代遅れになってしまいますので、良心的な高専教員は、常に専門研究に勤しむ、これが自然の姿なのです。
ところが、高専の運営においては、この教育と研究の分断がさまざまな形態で持ち込まれます。
教育は平等に校務分担、研究は個人でやれ、このような乱暴な意見が幅を利かせ、本科性の卒業研究や専攻科生の特別研究の指導をきちんと評価しないのです。
高専生の就職先については、もちろん本人の希望によって決められるべきものです。
その実態においては、その大半が大企業に就職しており、地元の中小企業に就職する事例はほとんどありません。
②の視点は真に重要であり、この明確化は初めてなされたことでもありましたので、画期的な意味がありました。
ここでは、いわゆる短所是正のことは一切指摘せず、長所のみを持続的に伸長していこうという認識が示されたことが重要でした。
たとえば、高専の校長がよく指摘していた「高専マイノリティ論」というものがあります。
高専は、きわめて少数だから、いくら声を大にしていっても届かないという主旨の主張です。
ここには、最初からある種の諦めがあり、逆に、その不利を有利にするまでのアイデアの巧みさが不足しています。
少々の不利はあっても、それを跳ね返して逆に有利に昇華発展させうるアイデアの創出を図る、ここに本質があります。
高専教育における最大の長所は、まじめに築き上げてきた実践j的技術のノウハウを発展させて、そこの豊かな創造性を付加していくことを可能とする条件整備がある程度できていることにある。
そのことは、今日のロボコン、プロコン、デザコンの発展ぶりを観察することで認識できるでしょう。
ここには、その見事な昇華の姿があり、それが多くの人々によって受容されています。
この視点の明確化は、高専の全面的で持続的な発展をめざすために、その長所をどこまでも伸ばしていくという方法論を含めて非常に重要なものでした。
そして、この高専における長所伸長論になかに、「高専生の創造性を豊かにする」課題も含まれていたのでした。
さて、ここまでに紙面を長く使用してきましたので、上記の③と④については、次回において論及することにしましょう(つづく)。
これらは、今となっては当たり前といってもよいことですが、これをきちんと明らかにして、堂々と示すことには小さくない意義がありました。
①高専30年の総括を踏まえて
②高専成長論の立場に立って
③高専危機論の解明を踏まえて
④運動論の視点を踏まえて
①では、高専の30年を振り返って、高専の当局者たちは、なにか矛盾が深まると高専の制度論を検討することに終始してきただけで、その矛盾を高専の内部から根本的に解決してこなかったことが指摘されています。
また、多数の高専があるなかで、一つでも優れた実績を示すことができた高専が輩出しなかったことには小さくない問題があり、そこには、高専を持続的に発展させる方法が明らかにされていなかったことが指摘されています。
②では、高専を持続的に発展させるために、その長所をより生かしていくことが強調されています。
そのために、次の根本問題の克服が明記されています。
「高専における根本問題は、『校長先決体制』のもとで自治意識の成長を阻害され、高等教育機関でありながら、教育と研究を分断する様々な論理が持ち込まれたことにあり、唯一開かれていたいたのは、大企業を中心とする学生供給の道であった。
このことは、卑屈なまでに高専を保守的、閉鎖的にし、高専生の自主性、創造性を欠如させる傾向を促進させた」
これについては、誤解が生じないように、より詳しい解説を加えておきましょう。
「校長先決体制」とは、高専内のすべての権限を校長が持ち、教職員や学生の自治の一切を認めないという前近代的な思想の下に、この権限を徹底させる教育運営体制のことであり、この弊害によって高専教職員や学生の自治意識が萎えてしまうという弊害的特徴を有しています。
また、高専は高等教育機関でありながら、研究機関としての認知を受けていません。
高専生、専攻科生、教員が、いくら素晴らしい研究を行っても、それは教育機関における行為なのです。
しかしながら、教員の昇格においては、高レベルの研究実績が問われるのです。
実際、日々進歩していく科学技術の成果を取り入れて研究を行っていかないと、卒業研究や専攻科の特別研究の指導は、すぐに時代遅れになってしまいますので、良心的な高専教員は、常に専門研究に勤しむ、これが自然の姿なのです。
ところが、高専の運営においては、この教育と研究の分断がさまざまな形態で持ち込まれます。
教育は平等に校務分担、研究は個人でやれ、このような乱暴な意見が幅を利かせ、本科性の卒業研究や専攻科生の特別研究の指導をきちんと評価しないのです。
高専生の就職先については、もちろん本人の希望によって決められるべきものです。
その実態においては、その大半が大企業に就職しており、地元の中小企業に就職する事例はほとんどありません。
②の視点は真に重要であり、この明確化は初めてなされたことでもありましたので、画期的な意味がありました。
ここでは、いわゆる短所是正のことは一切指摘せず、長所のみを持続的に伸長していこうという認識が示されたことが重要でした。
たとえば、高専の校長がよく指摘していた「高専マイノリティ論」というものがあります。
高専は、きわめて少数だから、いくら声を大にしていっても届かないという主旨の主張です。
ここには、最初からある種の諦めがあり、逆に、その不利を有利にするまでのアイデアの巧みさが不足しています。
少々の不利はあっても、それを跳ね返して逆に有利に昇華発展させうるアイデアの創出を図る、ここに本質があります。
高専教育における最大の長所は、まじめに築き上げてきた実践j的技術のノウハウを発展させて、そこの豊かな創造性を付加していくことを可能とする条件整備がある程度できていることにある。
そのことは、今日のロボコン、プロコン、デザコンの発展ぶりを観察することで認識できるでしょう。
ここには、その見事な昇華の姿があり、それが多くの人々によって受容されています。
この視点の明確化は、高専の全面的で持続的な発展をめざすために、その長所をどこまでも伸ばしていくという方法論を含めて非常に重要なものでした。
そして、この高専における長所伸長論になかに、「高専生の創造性を豊かにする」課題も含まれていたのでした。
さて、ここまでに紙面を長く使用してきましたので、上記の③と④については、次回において論及することにしましょう(つづく)。
モンキアゲハ蝶
コメント
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一般的に物事を推し進めようとするにはPDCA手法が必要です。いや手法と言えば、一時期流行ったQC手法というものがありますが、これらについては、今や企業(大企業だけかも?)では当たり前に取り入れています。さらにこの手法を用いて「KAIZEN活動」を推し進め、ボトムアップ型の経営の参考にしています。
さて、昨年の日本高専学会第24回年会講演会は北九州高専で開催されましたので、小倉競馬観戦に乗じて出席いたしました。感想は、「まあ、こんなものか」でありました。ただ、全国高専学会でありながら、小生とドクターがゆかりのある現役のT高専関係者は誰も出席してませんでした・・・。「まあ、こんなものか」ですね。ほっときましょう。
今年は、今、いろいろと問題の起こる地、仙台での開催ですね。ドクターはどうされますか?。開催日程が2019 年 8 月 31 日(土) 〜 9月 1 日(日) なので、 8 月 30 日(金)に大阪出張ですので、小生はそのまま東海道新幹線~東北新幹線で行くことは可能です。しかし、得るものがないのであまり気は進みません。止めましょうか?。
本日、ようやく会社事務所のソファが入り、やっとのことでレイアウトが出来ます。今週、片を付けることがいっぱいあり、忙しくなります。また、小生の会社とドクターの会社でWebを使った会議をしましょう。ではでは。
この論考は、次の段階として、さらにブラッシュアップして、日本高専学会誌に連続的に投稿することを考えていますので、かなりの長期戦になっていくでしょう。いろいろとお世話になった高専ですので、これが私なりの最後のご奉公になるかもしれませんね。
そう思って書いているせいか、あなたのご指摘のように、だんだん調子がよくなってきてスムースに筆が進むようになりました。「これでお別れ」、きっとその気持ちがよいのかもしれませんね。
この暗闇ゾーンに、この一連の連載記事は光を与えてくれています。
今の高専の諸々が、この連載によって手に取るようにわかります。30年前と今がつながっていて、今日の問題のルーツがここにあったのかと思うことが多く、そのことを技術者教育論の本質をめぐって解き明かしていくという、このスタイルは見事としかいいようがありません。
これから、より今日の問題に接近していくのでしょうから、私にとっては、ますますおもしろく、身近に感じる問題になっていきます。どうか、これによって高専の若い方々を鼓舞していただきたいと思います。
長期的視野から観ると、かれらは、その局面において何かをしようとすると必ず、1)高専の制度を問題にする、2)少数派だから何もできない、3)校長先決体制の維持がすべての前提になる、4)したがって教育の中身の改善には向かわない、このようなパターンになります。ですから、最後には言いぱなっしで終わります。
殻らが、何か書きものにおいて、教育実践において何か残したものがあるでしょうか。
現役の高専のみなさんは、50年余の伝統を引き継ぐ方々ですので、その理解が殊更大切だと思います。