2名の文部大臣が、二度にわたって「高専を専科大学にします」と記者会見を行った「騒動」は、高専の設置基準に関する根本問題の解決を回避したことにあり、それによって「とん挫」してしまったのでした。

 「研究機関ではない高専を大学とは呼べない」

 これが当時の内閣法制局が下した見解でした。

 今では、この法制局さんは、権力者の意のままに動くようになってしまいましたが、当時の、この見解は筋が通っていましたので、これを、専科大学の推進者たちは、だれも乗り越えることができなかったのです。

 この事実は、あまりにも見通しのない、そして情けないことでしたので、この「とん挫」の本当の理由は、ひた隠しにされ、別の理由が流布されていました。

 これは、ある意味で関係当局者たちの小さくない失敗でしたので、その穴埋めを急速にしなければ治まらないほどの大問題でした。

 この流れから、「専攻科設置」という一行が、次なる方針として、そっと付け加えられたのでした。

 突如として出てきた、この提案は、当然のことながら、現場の高専教員に戸惑いと混乱を巻き起こしました。

 それは、民主的で良心的な高専教員の中においてさえも「反発」に近い現象としても出現しました。

 当時は、高専の専攻科で何をするのか、その教育目標は何かが解らないままで、それを検討しようにも何もなかったことから、検討のしようがなかったのでした。

 しかし、この「専科大学騒動」の「副産物」といってもよい「専攻科設置」の一行が密かに加わったことには、その時の追記者の意図とは違って、非常に重要な意味があったのではないかと思います。

 おそらく、

 「あれだけの大騒動を起こしたのだから、何か前向きのことをしないと治まらない。専攻科であれば、内閣法制局の判断していただくことではないので、やろうと思えばすぐにでもできる」

と思われたのでしょう。

 ところが、「どのような専攻科を創ればよいのか」、これが解らないので、その立案が国立高等専門学校協会のトップに委ねられました。

 これによって出てきたのが、「創造的技術者の養成」を高専専攻科の教育目標とする案でした。

 今でもよく記憶に残っていますが、高専5年の本科においては、従来の「実践的技術者の養成」を教育目標として踏まえ、高専専攻科においては、それとは異なる「創造的技術者の養成」を行うとしていたのでした。

 この検討は、国専協のトップを中心にしてごく一部でなされたようで、多くの高専の校長に広く諮って検討するという民主的運営はなされませんでした。

 なぜなら、全国の高専の校長のなかには、高専が専科大学に変わると聞かされて、そのことを入学式で保護者に報告する、学校の看板を作る、封筒を新しく作り直すなどの作業を進めていた高専がかなりあったことから、いきなり、専科大学ができなくなったと告げられて、そのことに不信感や不満を持っていた校長も少なからずいたからでした。

 私は、この当時の彼らの討議内容を、その議事録を入手することによって詳しく理解していました。

 じつは、このなかで、彼らの本音と本質を知ることになりましたが、その大切な部分を紹介しておきましょう。

 当時の高専の校長の多くが「高専を専科大学にする」ことに関しては賛同していました。

 それは、まずは名称を変更してから、次に中身を充実させるという「二段階論」として集約されていました。

 この集約は何を意味していたかというと、高専を研究機関として認め、それを充実発展させることでした。

 すなわち、ほとんどの校長が、高専を発展させるには研究が重要であり、研究機関としての発展が必要と考えていたのでした。

 ところが、これとは別に、彼らにとっては、もう一つの重大問題がありました。

 高専を教育機関に留まらせるのではなく、研究機関としての認知をさせる、それは、大学になるということで、それを「専科大学」と呼ぶ、ここまでは彼らが納得していたことでした。

 高専が大学になる、大学になれば教授会が設置されるようになる、つまり「教授会自治」が認められるようになる、このようになると高専内部から校長が選出されるようになる、これが彼らにとっては重大問題だったのです。

 教授会自治が認められるようになると、それまでの「校長先決体制(教員の自治を認めず、すべてを校長が決めるといういわば独裁の決定システム)」が瓦解するからで、それを、彼らは一番恐れたのでした。

 高専の将来の発展において決定的に重要な「教育研究機関」になることよりも、自分たちが統治することを優先させたのですから、なんと「お粗末な狭小さ」かと呆れ返ったことをよく覚えています。

 それでも、なかには教授会の自治を認めてもよいのではないかという意見もあったようでしたが、それが多数を形成することはありませんでした。

 このような事情で、密かに専攻科設置の準備が進められ、それが表出したときには、創造的技術者論の彼らなりの「理論付け」がなされていたのでした。

 一方、この「専科大学騒動」と「専攻科設置」のころに、私は、全国的な教職員組合のトップや全国大学高専教職員組合高専協議会における「将来問題検討委員会」の実質的な責任者をしていましたので、高専の現場から、高専の将来を自分たちで考え、研究していく立場にありました。

 その自主的論議の集約として出版されたのが、
「高専白書(第3次)」と「私たちの高専改革プラン」でした。


 いずれも好評で追加出版がなされるほどによく読まれました。

 とくに後者は、優れた高専教員の英知が集約され、練り上げられた大作であったことから、今日までの高専と高専教育に小さくない影響を与えることになりました。

    これは、高専の現場の教員によって英知が集められ、そして洗練された、当時の「高専の未来図」であり、新しい重要な到達点でもありました。

 高専当局者の考えのもとに形成されたのが、次の声を含む流れでした。

 「高専の当初の存在意義が無くなってしまった」、「産業の急激な変化と高学歴化によって高専は押しつぶされる」、「少子化で行き詰る」、「高専の存在意義を明らかにする自主的研究が必要である」、ゆえに「高専を専科大学にすべきである」

 これらは、いずれも外部要因に依拠した高専の危機を煽ることを特徴としていました。

 一方で、後者は、まるで反対の高専の内部における現場の声や認識に基づいていました。

 次回は、そのより詳しい見解に分け入ることにしましょう
(つづく)。

yanaginokomiti
柳の小道