「創造的技術者の教育論」を検討するにあたって、その経緯の「おさらい」を行っておきましょう。
この教育論が登場したのは、高専における専攻科設置の時でした。
それまで、高専の本科(1年生から5年生までの教育課程)における教育目標は、「実践的技術者の養成」でしたので、これとの比較において、この「創造的技術者の教育論」が持ち出されてきたのでした。
この教育論が登場したのは、高専における専攻科設置の時でした。
それまで、高専の本科(1年生から5年生までの教育課程)における教育目標は、「実践的技術者の養成」でしたので、これとの比較において、この「創造的技術者の教育論」が持ち出されてきたのでした。
ここで重要なことは、殊更特別の「創造的技術者教育のプログラム」が考案され、実施されたのではなかったことでした。
しかし、高専の専攻科においては、より高次の教育が行われ、本科のそれとの差異がないといけませんので、それを特徴づける教育として「専攻科生は研究を行う」ことが強調されたのでした。
すでに、高専の本科では、カリキュラムのなかに「卒業研究」という授業科目が設定されていますので、その用語をそのまま使用できませんでした。
そこで、それを新たに「特別研究」と呼び、ここで研究を発展させることが求められました。
この指向は自然であり、必然的なものでしたが、次の本質的問題を孕んでいました。
①高専本科における「卒業研究」の水準を質的にも量的にも、どう乗り越えて本格的な研究へと発展させていくのか。
②その際、高専本科および専攻科に、それぞれふさわしい研究とは何か、その個性化をどう図り、独自の発展を遂げるにはどうすればよいのか。
しかも、高専本科生よりもより高度な研究を自主的に行うのが専攻科生であり、その教育こそ「創造的技術者教育」だと考えられたことから、その具体的な教育研究がなされる必要があった。
③高専の設置基準においては、高専は教育機関であり、研究機関ではないと明確に定式化されていて、この現状を維持したままで、専攻科における研究も発展を志向するのか、それとも、研究機関としての新たな位置づけの下にその発展をめざすのか。
この①と②に関する研究を行うには、③の問題解決が不可欠でしたが、ここは不問のままでした。
すでに明らかにしてきたように、この専攻科設置問題が発生する少し前においては、高専を専科大学にするということで、国立高等専門学校協会は合意していましたので、上記の①と②の問題は、当然のことながら検討されるべき重要な課題でした。
しかし、③の問題が解決できないままに、その名称変更のみを強行しようとしたことで、その高専全体を巻き込んだ「騒動」はとん挫し、霧散してしまったのでした。
その教訓を踏まえれば、③の問題解決を図ることが不可欠だったにもかかわらず、しかも、①と②の問題を本質的に解決できないままに進んでしまったことが、次の事態を生み出すことになりました。
しかし、高専の専攻科においては、より高次の教育が行われ、本科のそれとの差異がないといけませんので、それを特徴づける教育として「専攻科生は研究を行う」ことが強調されたのでした。
すでに、高専の本科では、カリキュラムのなかに「卒業研究」という授業科目が設定されていますので、その用語をそのまま使用できませんでした。
そこで、それを新たに「特別研究」と呼び、ここで研究を発展させることが求められました。
この指向は自然であり、必然的なものでしたが、次の本質的問題を孕んでいました。
①高専本科における「卒業研究」の水準を質的にも量的にも、どう乗り越えて本格的な研究へと発展させていくのか。
②その際、高専本科および専攻科に、それぞれふさわしい研究とは何か、その個性化をどう図り、独自の発展を遂げるにはどうすればよいのか。
しかも、高専本科生よりもより高度な研究を自主的に行うのが専攻科生であり、その教育こそ「創造的技術者教育」だと考えられたことから、その具体的な教育研究がなされる必要があった。
③高専の設置基準においては、高専は教育機関であり、研究機関ではないと明確に定式化されていて、この現状を維持したままで、専攻科における研究も発展を志向するのか、それとも、研究機関としての新たな位置づけの下にその発展をめざすのか。
この①と②に関する研究を行うには、③の問題解決が不可欠でしたが、ここは不問のままでした。
すでに明らかにしてきたように、この専攻科設置問題が発生する少し前においては、高専を専科大学にするということで、国立高等専門学校協会は合意していましたので、上記の①と②の問題は、当然のことながら検討されるべき重要な課題でした。
しかし、③の問題が解決できないままに、その名称変更のみを強行しようとしたことで、その高専全体を巻き込んだ「騒動」はとん挫し、霧散してしまったのでした。
その教訓を踏まえれば、③の問題解決を図ることが不可欠だったにもかかわらず、しかも、①と②の問題を本質的に解決できないままに進んでしまったことが、次の事態を生み出すことになりました。
1)高専に本科における卒業研究の水準が、それを担当する教員の委ねられたことと同様に、専攻科におけるより高度な研究としての「特別研究」の水準も、それを指導する教員に任されることになった。
2)ただし、これには、上記③の問題として、特別研究の評価に関しては、高専教員自らが行えないとされ、そのレポート提出による面接試験が、学位授与機構によって毎年行われることになった。
この原因は、教育機関に過ぎない高専教員では、その特別研究のレポートを審査できないという見解に基づいて行われたのであり、ここにも小さくない③に関する矛盾が露呈していた。
3)これらの結果、専攻科における「創造的技術者の養成教育」は、大学並みのカリキュラムと特別研究を主としてなされたことで、結果的には、その目標と現実的教育実践において、その乖離はますます拡大していくことになった。
なぜ、このような現象が生まれたのでしょうか?
半世紀以上も続いてきた高専教育、30年を超えた専攻科教育のなかで、いったい何が不足し、あいまいだったのか?
2)ただし、これには、上記③の問題として、特別研究の評価に関しては、高専教員自らが行えないとされ、そのレポート提出による面接試験が、学位授与機構によって毎年行われることになった。
この原因は、教育機関に過ぎない高専教員では、その特別研究のレポートを審査できないという見解に基づいて行われたのであり、ここにも小さくない③に関する矛盾が露呈していた。
3)これらの結果、専攻科における「創造的技術者の養成教育」は、大学並みのカリキュラムと特別研究を主としてなされたことで、結果的には、その目標と現実的教育実践において、その乖離はますます拡大していくことになった。
なぜ、このような現象が生まれたのでしょうか?
半世紀以上も続いてきた高専教育、30年を超えた専攻科教育のなかで、いったい何が不足し、あいまいだったのか?
より具体的には、実践的技術者教育における研究不足が、あいまいさが、今度は、創造的技術者教育においても同じように生まれているのはなぜか?
そして、専攻科のみに限定されていた創造的技術者教育論が、いつのまにか高専本科にも適用されるようになり、今日を迎えているのはなぜなのか?
おそらく、このような疑問のなかで良心ある高専教員のみなさんは悪戦苦闘されているのではないでしょうか。
製造業だけでなく「平成経済」そのものが衰退してしまった今日、この暗闇と停滞の中で一隅を照らす灯を探しておられるのだと思います。
その灯としての一助となれば幸いと思って、この考察を継続していきたいと思いますので、高専教員のみなさま、よろしくお願いいたします(つづく)。
そして、専攻科のみに限定されていた創造的技術者教育論が、いつのまにか高専本科にも適用されるようになり、今日を迎えているのはなぜなのか?
おそらく、このような疑問のなかで良心ある高専教員のみなさんは悪戦苦闘されているのではないでしょうか。
製造業だけでなく「平成経済」そのものが衰退してしまった今日、この暗闇と停滞の中で一隅を照らす灯を探しておられるのだと思います。
その灯としての一助となれば幸いと思って、この考察を継続していきたいと思いますので、高専教員のみなさま、よろしくお願いいたします(つづく)。
雨のしずく
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現場の高専では、高専機構が「ああいった」、校長が「こう言っている」ばかりで、少しも掘り下げた問題解明がなされていません。それに比べると、本記事は全く次元が異なる論及ですので、まるで別世界のように感じています。
しかも歴史的経緯をたどりながら論証されていますので、頭が下がります。どうか、この展開を成し遂げ、大著にしていただきたいと思います。
その昔、今から36年前の夏。弱小T高専野球部は1年生が入学しないと試合が出来ないという悲惨な時代でありました。そんな時代ですから、のんびりしていたかと言うと、いやいやいや。今、F高専の校長をやっている、当時、しがない文部技官のTさんが若干24歳で意気盛ん!猛練習の日々でありました。そう、弱小なのですが、練習はキツイの何のって!ワヤクソでありました。土日なんてあったもんじゃないのです。いい思い出です。
さて、高専の未来図~技術開発とは何か~。「高専のあるべき姿論」が二転三転し、結局誰もが人任せ、誰もがこれだという結論を出せないまま彷徨い続け、成り行き任せでのようですね。結局のところ、ドクターのような「ずけずけとモノを言える人材」がいないんですよ。情けないったらありゃしない!
そこで、日本高専の未来を憂う唯一?のドクターに参考になるかどうかはわかりませんが、小生が面白いと思った記事を参考にして頂きたいと思います。
タイトルは、~ノーベル賞・野依博士「本気で怒っている」日本の教育に危機感!~であります。
一旦終わり。
「教育の究極の役割は、人類文明持続への貢献だ。加えて、わが国の命運もかかっている。私はいまの教育と世相に大いに怒っている」――。2001年にノーベル化学賞を受賞し、現在は科学技術振興機構の研究開発戦略センター長を務める野依良治博士は、日本の未来、そして教育への危機感をあらわにする。令和の時代が始まったいま、ノーベル賞受賞者には日本の教育がどう見えているのか。教育新聞の編集部長が聞いた。
『学校教育は「金持ち」になるためではない!』
―日本の教育はいま、大変革期を迎えています。先生が座長を務められた教育再生会議から干支がほぼ一回りし、令和の時代に入りましたが、いまの教育をどう見ていますか。ー
私は教育の専門家ではありません。だが、この硬直化した教育の状況について言いたいことはたくさんある。本気で怒っています。本来、なぜ教育があるのか。まず、個々の人々が豊かな百年の人生を送るため。国の存立と繁栄をもたらすため。さらに人類文明の持続に資することが最も大事で、この根幹を忘れてはならないと思うわけです。
―問題は、じゃあ、どういう人生、あるいは国、あるいは人類社会であるべきか?ということ。そこに理念あるいは構想がなければとても教育はできませんね。―
日本は戦後、欧米から民主主義や人権など多くのことを学んできたものの、残念ながら受け身であり続け、自らが考えた「国是」、英語で言うナショナルビジョンが共有されていないことに、根本的な問題があると思っています。
一旦終わり。
ー 学校教育については、どうでしょう。ー
学校教育は、社会のためにある。個人が自由に生きる権利は大切だが、決して入学試験に合格するためだとか、あるいは金持ちや権力者になるためにあるのではない。教育界というのは日本であれ、あるいは世界であれ、あるべき社会を担う人を育まなければいけない。健全な社会をつくることが、国民それぞれの幸せにも反映するわけです。
日本は他国並みではなく、格段にしっかりした次世代を育てなければなりません。行政にも現場にも、その覚悟が求められる。そして、多様な文化を尊重する文明社会をつくっていかなければいけない。
長いので今日はこの辺で!ではでは。
高専における教育の利点を深く掘り下げ、わが国を代表する高等教育機関になるために、その理論化が非常に重要です。
そのために、実践的技術者論、創造的技術者論をどうしても克服していく必要があります。その歴史的検証を行いながら、その考察を進めていきたいと思います。
事の本質は、ずけずけと物が言えるかどうかどうかではなく、その的を射た研究と理論化がなされているかどうかにあると思っています。
これは、相当に腰を落ち着けて、何十年というオーダーで考え続けることのなかで可能になる論究ではないかと思います。
私は、文化は4つの要素から成ると思っています。「言語」「情緒」「論理」、そして「科学」。
言語は地域によってものすごくたくさんあり、他方で科学は一つしかない。情緒や論理の多様性は、その言語と科学の間にある。これらの文化的な要素をきちんと尊重しなきゃいけない。決して軍事力や経済力で踏みにじってはならない。
私は科学者ですが、将来を考えると科学知識や技術だけでは、人々は生きていけないと思います。やっぱり文化に根差す思想がないと、未来を描くことも、実現することもできない。
ーそのためにも、教育しなければいけない、と。ー
その通りです。同時に人は時代と共に生きているわけで、その時代が求める知は何かということです。教育は教条的ではいけない。昔の教育と今の教育は違うはずで、近未来も含めて時代を生き抜く若い世代をつくることが、個人のためにも、社会のためにもなるのです。
科学教育の本質は「無知の知」
ー 科学者の立場から見て、科学教育とは何でしょう。ー
科学とは、真理追究の営みです。ポール・ゴーギャンの「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」という絵がありますよね。この問いにまっとうに答えるのが科学だと思っています。
科学は客観性の高いものですが、人々の営みとか自然観、人生観、死生観などの、まっとうな主観を醸成します。いたずらに経済的利益追求に貢献するだけではなく、これが本当の意味での科学の一番大事な役割なのです。
続く
―全体像を把握する力も足りていませんか。―
例えば私たちは一冊の本があったら、まず第1章、第2章、第10章、第15章と、前から目次を順次眺めながら、全体の学問の構造を勉強しました。目次は大事です。
しかし、今の大学生は目次には関心がなく、索引を見ます。例えば索引で万有引力の部分を読んで、「おお、万有引力とはこういうことか」と。細胞死なら細胞死の記述だけを読んで「これは分かった」と。だから知識が体系化されず、ばらばらで断片的なのです。
教育最貧国”の日本「先生が気の毒」
―巨人の肩に乗る”格好にならないのですね。ー
そう、なりません。ドローンでさっと舞い上がって、あらかじめ見たいものだけをピンポイントで見てくるようなものです。
考える力、答える力が落ちていると言いますが、最も心配なのは「問う力」がほとんどないこと。誰かに作ってもらった問題に答える習慣が染み付いている。幼い子供たちは好奇心を持つが、学校教育が疑いを持つことを許さないのではないか。発展につながるいい問題を作るのは、与えられた問題にいい答えを出すよりも、ずっと難しいのです。平凡な既成の問題に答えてもまったく意味を成さないはずで、なぜこんなことが分からないのか。
しかし、これは生徒が悪いのではなく、国なり、社会の教育に対する考え方が、科学研究を損なっているのです。
私は教育再生会議の座長を務めましたが、やはり「社会総がかり」で教育に取り組まないといけない。その意味で日本は“教育貧困国”なのです。学校だけに任せては駄目です。学校教育だけでなく、家庭、近所、地域、さらに産業界、あらゆるセクターの組織、あるいは人々が教育を支えるという気持ちにならないといけない。そして教える側自身も、そこから多くを学ぶ。
続く
この本質を理解できないと、すぐに横道に反れる、金や権力に惑わされる、保守化してしまうことが起こり、科学の目を潰してしまいます。
この坂道を転がると、怖いことに、どこまでも落ちていくようになります。坂道ですから、落ちていくことには労力が不要ですので、もっと楽をしようという気持ちになっていきやすいのです。
それでは、恰好が悪いのでポーズだけは保とうと浅知恵を働かせますが、そのような名演技を続けることはできません。
「時代が求める知」を究明することこそ、教育の本質であり、それに挑む若者たちを創り出すことこそ、その重要な役割といえるでしょう。
すぐに回答を知りたがる、インターネットで答えを探してきて、安心する、このような光景によく出会います。発展につながるいい問題を作ることは難しい、そこが貧困になっているという指摘は最もです。
これは、教える側においても同じ貧困傾向にあり、ここからは何も出てきそうにない、相変わらずといったところでしょうか。
しかし実際には、今の小学校から大学の教育を見ても分かる通り、教育が学校に偏重している。そして皆、自分の義務を果たすことなく、「学校が悪い、先生が悪い」と言っていて、先生たちが気の毒です。
一方でメディア報道によると、身勝手な教育者らしからぬ先生も大勢いるようです。不祥事は根絶しなければなりません。
学校の先生に全部任されてもね。「親の顔が見たい」という言葉がありますが、家庭でしつけのできていない子供たちを教育できませんよ。学校教育はもちろん大事で、教育の中核を成すものだと思いますが、あくまで教科が中心でしょう。
現代、そして将来の社会を支える人をつくる、そして、その個人が幸せに生きるということを、社会全体で考えない限り駄目です。
続く
若年層の創造性を損なう入学試験の弊害
ー何がひずみを生んでいるのでしょう。教育界はどうするべきなのでしょう。ー
わが国の教育界は、個々の若者に新たな社会環境を生き抜く力を与えるとともに、国全体の知的資質と資産の最大化に努めるべきです。あらゆる分野で人材不足で、特に均質性が気になる。
私は、入学試験の弊害がものすごく大きいと思います。若年層の創造性と感性を損なう非生産的な過当競争は絶対に避けるべきだが、一方、現状を利する守旧派勢力は大きい。教育を取り巻く全てのセクターが世界の変化を直視し、近未来を担う若者を育てるべきです。
まず入試にある科目しか勉強しないことは大問題だ。確かに学力は合否判定の軸です。しかし、筆記試験の成績が神のご託宣のように思われているが、その「信仰」の根拠は何か。この「神」は一人ひとりの獲得点数を1点刻みで正確に知っているが、人物の内容については何一つ理解していません。
入学者の選抜においては、子ども、青年たちが、この学校・大学に入ってどのくらい成長するかという観点で、総合的に判断すべきだと思います。筆記試験で今まで詰め込んだ知識の量はそれなりに測れるかもしれないが、それだけでは不確実性に満ちた時代に生きる成長性は全く判断できないではないですか。
続く
若年層の創造性を損なう入学試験の弊害。
ー 何がひずみを生んでいるのでしょう。そして教育界はどうするべきなのでしょう。ー
わが国の教育界は、個々の若者に新たな社会環境を生き抜く力を与えるとともに、国全体の知的資質と資産の最大化に努めるべきです。あらゆる分野で人材不足で、特に均質性が気になる。
私は、入学試験の弊害がものすごく大きいと思います。若年層の創造性と感性を損なう非生産的な過当競争は絶対に避けるべきだが、一方、現状を利する守旧派勢力は大きい。教育を取り巻く全てのセクターが世界の変化を直視し、近未来を担う若者を育てるべきです。
まず入試にある科目しか勉強しないことは大問題だ。確かに学力は合否判定の軸です。しかし、筆記試験の成績が神のご託宣のように思われているが、その「信仰」の根拠は何か。この「神」は一人ひとりの獲得点数を1点刻みで正確に知っているが、人物の内容については何一つ理解していません。
入学者の選抜においては、子ども、青年たちが、この学校・大学に入ってどのくらい成長するかという観点で、総合的に判断すべきだと思います。筆記試験で今まで詰め込んだ知識の量はそれなりに測れるかもしれないが、それだけでは不確実性に満ちた時代に生きる成長性は全く判断できないではないですか。
続く
大学自身の教育がもっと個性的になり多様性を帯び、それを受験生が魅力を覚える、この努力が不足しているのではないかと思われます。
これは高専にとっても同じことであり、魅力的な高校生、中学生をどんどん迎え入れることが重要だと思います。
世界が多様性に向かう中、画一性に固執する日本
― 「客観でなく主観で」は、選抜法の180度の転換ですね。―
「主観は偏見が入るからいけない」「筆記試験は客観的で公平だからいい」と言う。では本当に子供、青年たちの機会均等は保障されているのか。受験技術の習得に多額の費用がかかり、親の経済力が機会獲得の支配因子とも言われる。ならば現行の選抜法は、むしろ「政策的偏見」ではないでしょうか。
特定の階層の、既得権の再確認であり、国家的には人的資源の大きな損失です。当人が預かり知らない外的要因で、18歳の時にその後の運命が決まっていいはずがない。将来の進路にもよるが、“規格品”が通用しない科学分野にとっては大問題です。ここでは要領の良さは通じません。守りの姿勢ではなく、全く無から有を生む、ひたむきな攻めの姿勢こそが求められるのです。
続く。
世界が多様性の尊重に向かう中で、日本はなぜ、画一性にこだわるのか。民族性が関係するのでしょうが、私は全く理解できずにいます。世界では人材獲得競争が激化する中、英米の学長らに実情を話し、意見を聞いてみてほしい。これで海外の優秀人材を確保できるのか。安易な形式的公平性を排し、責任を持って主観的判断をすべきです。
もはや18歳人口はわずか118万人、1992年の205万人からほぼ半減した。私立大学の定員割れ状況をみても、国内の人材枯渇は明白です。さらに大学生については、国内外の「頭脳循環」(英語でいう「Brain circulation」)を欠くため、数量、質ともに危機的状況にある。このままでは座して死を待つのみです。
さらに言えば、大学院入試における、学部学生の囲い込みもひどい。大学院教授は、同一大学内の学部で教えてきた学生たちを審査する。他大学出身生が太刀打ちできるはずがない。利益相反の極致にあります。米国などでは同一大学生の内部進学を回避するところも多く、全く考えられない状況です。
学生たちは勇気を持って動いて、武者修行するべきですね。(終)
ドクター!。かつてないほどのロングランでしたが、「高専未来図」策定の羅針盤になればと思い投稿しました。
さて、このインタビューをされた人物についてですが、評判は最悪です。そのキャラクターは激情型で傲慢。周囲には恐れられ意に沿わぬことがあると怒鳴り散らすという戦前生まれのクソジジイであります。ただ、稀有な人材であったことは間違いないでしょう。いわゆるノーベル賞受賞者で政治的な動きができる人はいなかったわけで、そのことが日本の科学界もたらせたものもあると言えます。
がしかし、この科学界のドンも「STAP細胞騒動」では醜態を晒し、晩節を汚したのであります。ここが、iPS細胞で同賞を受賞した人物との差なのでしょう。ではでは。
かつてのノーベル賞受賞者は、その専門性に加えて人格的にも優れた方が多くいたのですが、その方の思想が広く影響を与えるということはほとんどなくなってしまいました。ノーベル賞もやはり標準化されてきたのですね。
たとえば、湯川秀樹先生は、教職員組合の集会に出かけていって講演を度々なさっています。これこそ本物であり、政府の雇われ機関において意見を述べるだけでは、人心を得ることはできないのではないでしょうか。
ずっと拝見してきましたが、この方の主張の奥で、思想的な浅薄さが影響しているのではないかと感じましたが、教え子殿はいかがでしたか?
最近、よくいわれるのは、かつては若者が共産党を支持していたのに、いまでは自民党支持者が多いというのですから、変われば変わるものですね。
私が、常に大切に思っていて重要な探究課題だと思っていることは、この「攻めの姿勢をどのようにして若者がひたむきに持てるか」であり、これを教え込む最も有効な方法は、大人たちが、あるいは年配者たちが、それを目の前で実践して見せることだと思います。
この教示が無くなってしまった今日では、攻めようにも攻められない、これが正直なところでしょう。
ひたむきな攻めを行うには、絶対的な優位性、圧倒的な勝利への展望、豊かな夢への挑戦心が優れていることが必要条件なのです。
小さくても、少人数でも、金も多くは必要ない、その志の強さと粘りで革新を遂げていく革命性が重要なのです。
これには老いも若きも関係ありません。
昨今は、上位にある者が下位の者をちょっとしばいただけで大問題になりますが、小生が小学~中学~高専なんかの時代は何という事もありませんでした。ドクターは元教師としてこのことをどう考えますでしょうか?
さて、ノーベル賞受賞者の思想的な浅薄さですが、同感であります。そもそも、2014年初めから始まったSTAP細胞論文事件では、組織のトップであるジジイの顔が一貫して見えにくかったですね。
STAP細胞論文に対する外部からの疑惑の声、論文の撤回、OB方H子の釈明会見、S元理化学研究所CDB副センター長の自殺、調査委員会の設置や報告会、OB方H子の退職など、この事件をめぐる約15カ月の間に、節目となる事象がいくつもありました。しかし、その時々に組織の最高責任者であるジジイが自らメディアの前に出て見解を述べたり反論したりするようなことはなかったように記憶しています。
続く。
事件収束時の記者会見で、この「老いぼれジジイ」は、「未熟な研究者が・・・未熟な研究者が・・・」などと他人事のようなコメントを述べています。アホちゃうか?
この「アホの老いぼれジジイ」は3期12年理事長を務める予定でしたが、任期途中で辞任しました。STAP細胞論文事件が引責ではないと言い放ち、最後まで自分の公的責任を自覚しなかったという点で「欠陥品のトップ」だったと言えるでしょう。
こうした事態を招いた理研の責任は重いですね。一連の提言は「アホの老いぼれジジイ」が決断すればすぐに実行できたはずなのですが、あまりにも対応が遅かった。組織を守るという意識だけでいっぱいいっぱい、ある種の怠慢であり、謙虚さに欠けていたと感じざるをえません。
OB方H子は確かに未熟だったでしょうが、科学雑誌『ネイチャー』にSTAP細胞論文が掲載されると、割烹着姿で顕微鏡をのぞき込む姿を「リケジョの星」とか「ノーベル賞級の発見」とか煽り持ち上げた日本のメディアの責任は大きいと言えます。
さらに、追い打ちをかけるように「博士号の剥奪」とか、何も過去にさかのぼってやらんでもいいじゃないかと思うのです。別に小生はOB方H子をかばうつもりは毛頭ありませんが、寄ってたかって袋叩きにするのはバカの日本メディアらしいと言えばらしいですね。
2016年にOB方H子は一連のSTAP細胞問題に触れた手記『あの日』を出版しましたが、小生も買って読みました。とても正直に書かれた手記です。出版から3年半。H子は今何を思うのでしょう。
ではでは。