少し時間が取れるようになりましたので、大分市に出かけました。

 私が住んでいる国東と比較すると大分市は都会であり、その街並みは、超高層のビルがないだけで東京とほとんど変わりません。

 人が多く、店舗に並んでいる商品はほとんど同じであり、みなこのように、リトル東京化してしまったようですね。

 それが証拠に物価は、東京よりはわずかに安い程度で、食べ物も、着るものもほとんど同じで、何もかもが中央集権化された姿が随所に見受けられました。

 その大分には、2つの用事がありました。

 その最初は、故人となられた清水正嗣先生(大分大学医学部名誉教授)の霊前で冥福を祈ることでした。

 先生は中津市の川嶌整形外科病院の名誉院長でおられたころに親しくなり、私の入院長に病室に来られて大いに語り合ったこともありました。

 そのきっかけは、私の家内のCDを差し上げたところ、先生の前の奥様のことを思い出されたとのことで涙を流して喜んでいただけました。

 先生は、大の音楽好きで、ドイツ、フランスなどにおいて本場のコンサートにも幾度となく行かれ、その道の通でもありました。

 最初は、その先生と音楽談義を深め、そのうち、学問や社会の話まで多岐にわたって話し込むことになりました。

 とくに、私どもが川嶌整形外科病院と共同研究を行なうようになってからは、その実験の合間に、清水先生と、それこそよく話をするようになり、医学的な識見についてもたくさんのことを教えていただくことになりました。

 折しも、先生は、別荘を湯布院に建てようかという話が合ったそうで、そのころに国東のわが家を尋ねてくださいました。

 「ここは環境もよく、それに魚がおいしく、さらに、空港までは車ですと4分で行けますよ」

 こうお誘いしたら、先生ご夫妻は、そのたった一度の訪問で、その湯布院の別荘を建築を取り止められ、私の家からわずかに20mほど離れたところに別荘を建てられるという離れ業を行使されました。

 「これで、ゆっくりと、そして、とことん語り合うことができますね」

 先生は、私との話し合いをとても好まれ、私も近くに、「真に頼もしい方がやってきて、これは楽しくなるな」と思っていました。

 そして、あれよ、あれよという間に、その別荘ができてしまい、その交流が始まりました。

 私は、この入居を紹介したということで、大分県の住宅供給公社から5万円いただくことができましたので、それで毎月フランスワインを購入することにしました。

 「先生、このワインで、お互いにゆかいに話ができますね!」

 しばらく、このワインを持参して清水邸へ通うことになりました。

 しかし、先生は相変わらずの忙しい日々で、中津(病院)、大分(自宅)、東京(自宅)へと移動しながらの生活をなされていました。

 このような生活に無理があったのでしょうか、先生は4年前に倒れられ、そのまま病院生活を余儀なくされました。

 そして3月にお亡くなりになりました。

 ご霊前には、先生の蝶ネクタイ姿の写真が置かれていました。

 このお姿を見て、先生はやはり学者としての一生を過ごされたのだと改めて思い直しました。

 わずかに微笑まれた表情は、とても素敵でした。

 その先生のご霊前で、心より冥福を祈りました。

 正義感に溢れ、そしてやさしく、学問を愛され、社会的にも筋を通される方でした。

 先生との語り合いは、ほんのわずかな期間でしたが、その内容はすこぶる充実していましたので、それらを思い起こしながら、先生のご意思を、どこかで生かすことができると幸いと思っています。

 清水正嗣先生、どうか安らかにお眠りください。

 このお参りの後は、大分駅の駅ビル4階で昼食として中華料理をいただきました。

 このなかで、黒豚の酢豚とあんかけ焼きそばをおいしくいただきました。

 その後、2つ目の用件として、今回の申請に関係した書類を、その管理機関に直に届けていただきました。

 久しぶりに人ごみに揉まれ、そのなかにいつもとは違う自分がいることに気づきました。

 自然に、このような人、人のなかでの生活とは無縁になっている自分になっていることを知りました。

 清水先生、入院中、そして退院後も、少なくないご厚情とご支援をいただき、ありがとうございました。

 今となっては、形見にいただいた大きな机に向かってい大いに仕事に励みます。

 どうか、天国で、心安らかにお過ごしください。

sannshoku
岩戸寺の春三色