ショスタコービッチ作曲の交響曲第7番の楽譜がレニングラードのラジオシンフォニーに到着しました。

 この楽譜を見て、ラジオシンフォニーの指揮者エリアスベルクは、ショスタコービッチの故郷をヒットラーから守るという強い思いに心を動かされます。

 しかし、同時に、この曲を演奏するには圧倒的に楽団員が不足していることを悟ります。

 「いまのままでは演奏できない!」

 芸術監督のパープシキンに、そのことを告げているときに、1通の手紙が届けられたのを見かけました。

 それは、ある楽団員からのものでした。

 この手紙を見たエリアスベルクは、「あっ」とひらめきました。

 「そうだ、ここには楽団員からの手紙が来ているはずだ!」

 開封もされず、その手紙は束ねて箱に納められていました。

 それぞれの手紙は軍の検閲を受けており、そこに印の番号印が押されていました。

 この番号から、楽団員の戦地がわかるので、早速、その楽団員と住所のリストができ上りました。

 かれらは、それを持って軍と粘り強く交渉し、とうとう楽団員をラジオシンフォニーに帰らせることを実現させたのでした。

 怪我、栄養失調、シラミだらけの楽団員が集まってきましたが、かれらを支え、命を救ったのは、その演奏練習だったのです。

 「ヒトは簡単に堕落することができるが、そこから立ち直ることもできる」

 ショスタコービッチの第7番が、かれらを救ったのでした。

 やがて第7番の演奏日が決まり、レニングラードの市民もそれを心待ちにしていました。

 ところが、ヒットラーは、「そうはさせじ」と、このコンサートの日に総攻撃を仕掛けることを命じていました。

 軍人も市民も、その攻撃に備えて弾薬を集め攻勢的に迎え撃つ準備を行い、街中では、ラジオシンフォニーを取り囲むバリケードを幾重にも強化したのでした。

 こうして、ラジオシンフォニーによる命をかけた演奏が始まります。

 その演奏は、レニングラードの市民へ、そして戦場の戦士たちへ、さらには世界へと同時中継されました。

 コンサート会場も満員で、そこに来た市民は、ドイツ軍の砲撃を受けることを覚悟しながら参加していたのでした。

 この必死の勢いに押されたのでしょうか。

 ドイツ軍は何も手出しをすることができませんでした。

 戦場で、この第7番を聞いたドイツ軍兵士は、次のように語ったそうです。

 「これで、我々は永久にレ二ングラードを攻め落とすことができなくなった」

 これは、第7番「レニングラード」によって、ヒットラーのドイツ軍が、精神的に敗北したことを意味していました。

 指揮者と楽団員、市民と軍の心を一つにさせたショスタコービッチの第7番は、こうして「レニングラード」と呼ばれるようになったそうで、真に感動的なサスペンスでした。

 これをナビゲートした玉木宏さんの真摯な取材もすばらしいもので、戦争の苦難を潜り抜けた人々の思いに入り込んで問いかけ、語っていた姿勢も立派でした。

 この交響曲「レニングラード」については、何も知らなかった私でしたので、このサスペンス紀行を何度も拝見しながら、同時に、このシンフォニーの演奏を鑑賞していきました。

 合計で7人の指揮者による演奏の聴き比べも行いました。

 それぞれ微妙に描き方が異なり、それが妙味でもありました。

 そのなかで印象深かったのが、バーンシュタインとトスカニーニによる演奏でした。

 前者には張りと勢いがあり、澄んだ音が際立っていました。

 また後者は、アメリカでの最初の演奏の指揮者であり、数々の音楽を演奏してきただけに、そしてイタリアから独裁者ムッソリーニを嫌って亡命してきたという強い思いが込められていたのでしょうか、とてもすばらしい演奏でした。

 こうして、ショスタコービッチの故郷に寄せた思いが込められた交響曲「レニングラード」は、当時の政治家に趨勢にも影響を与え、最後には戦争に打ち勝つ「武器」となり、その力を歴史に刻ませたのでした。

 この起源を創ったショスタコービッチの交響曲「レニングラード」がなければ、このような歴史における現象は起きなかったはずです。

 一つの芸術作品が巨悪の企みを撃破し、歴史を動かし、平和に導いたのですから、この力は決して小さなものではなかったはずです。

 ここで重要なことは、その巨悪は、ヒットラーだけでなく、自国の圧政者も含む者だったことをショスタコービッチ自身が隣人に語っていたことが、番組において明らかにされていたことでした。

 「レニングラード」の演奏が終わった後に、小さな少女が花束を持って指揮者のエリアスベルクのところに来られたそうです。

 その花束には、少女のお母さんの感謝の言葉が添えられていたそうです。

 エリアスベルクは、あの悲惨な辛苦のなかでも花を育てている方がいたのかと感涙されたそうです。

 ラジオシンフォーニーの記念館には、その少女と花束の写真が飾られていました。

 このサスペンス紀行を見直し、そして交響曲「レニングラード」を何度も聴きながら、私の脳裏には、次のような思いが過りました。

 「このようなことは、作曲の話に留まらないのではないか。

 おそらく技術においても、このようなことは起こってきたし、これからも起こることではないか。

 人々の心を一つにし、巨悪の企みを許さない、そして、それらを撃破していく『武器』のひとつになる可能性があるのではないか。

 あるとすれば、それを追究することにしよう」

 真に、心に残る番組でした。

 今も、この記事を書きながら交響曲「レニングラード」を聴いていますよ(この稿おわり)。

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水仙の蕾