先日のNHKBS番組「音楽サスペンス紀行『レニングラード』」を再度見直してみました。

 これは大変すばらしい音楽紀行であり、まさにサスペンスにふさわしいドランチックでふしぎな内容に惹き込まれていきました。

 ここに登場してくる歴史的人物が多彩で、それらを背景にしながら、主演の玉木宏さんが行った現地のみなさんへのインタビューに説得力があり、非常に充実したおもしろい内容になっていました。

 余談ですが、この番組を最初に観たときには、傍らで孫たちがぎゃんぎゃん騒いでいましたが、それが少しも気になりませんでした。

 そしてこの間、主題となった交響曲第7番「レニングラード」を相当に聴き込んできましたので、この番組に流れていた交響曲の調べは親しく、祖効果によって現地の臨場感がさらに増していました。

 さて、この第7番の楽譜がマイクロフイルムでアメリカに輸送され、その初演がトスカニーニの指揮で大成功し、アメリカ国民が、これを拍手大喝采をしたことを、前回の記事において示しました。

 当時のアメリカは、まだ第二次世界大戦に参加していませんでしたが、ヨーロッパ諸国やソビエトへの支援を続けていました。

 しかし、財政的理由で、この支援の継続が困難になり始めたいました。

 この心配を大きく吹き飛ばしたのが、このショスタコビッチの交響曲第7番の演奏の大成功でした。

 これによって、スターリンはアメリカからの支援を継続させ、一方のアメリカのルーズベルト大統領は、従来の2期までが、4期の長きに及ぶ任期の大統領職を継続できたのでした。

 たしかに、この7番は、巨悪に向かって、巧みに立ち向かう戦士たちの姿が描かれており、それがアメリカ国民の心をしっかりと捉えたのだと思います。
 
 一方、ヒットラーのドイツ軍に包囲された現地「レニングラード」では何が起きていたのでしょうか。

 もともと、この都市はピョートル帝政の首都として整備され、「サンクトペテルブルグ」と呼ばれていました。

 それが、ロシア革命を指導したレーニンの出身地で、その拠点となっていたことから「レニングラード」に改名されていました。

 そしてショスタコビッチも、このレニングラードで育ち、音楽を勉強したのでした。

 ですから、かれは、地元のサッカーチームをこよなく愛し、戦争になるとレニングラードの防衛団に自ら参加したのでした。

 モスクワに次ぐ第二の都市であり、海運の要衝でもあったことから、ヒットラーとしては、ここを、どうしても占拠し、都市そのものを「せん滅させる」と豪語していました。

 その旧都のせん滅は、ロシアの息の根を止めることを意味することをヒットラーはよく理解してからでした。

 紀行者の玉木さんが訪れたのは、レニングラードのラジオ局(ドム・ラジオ)でした。

 テレビのない時代ですから、メディアの中心はラジオであり、みなさんが、これに耳を傾けていました。

 ここに、ラジオシンフォニーという音楽放送局およびシンフォニー楽団がありました。

 そこには指揮者のエリアスベルクがいました。

 かれらは、ラジオを通じて自分たちの音楽演奏を流すとともに、世界中の音楽を選抜しては放送していました。

 すなわち、このラジオシンフォニーは、ソビエトと世界を繋ぐ文化の拠点の役割を果たしていたのでした。

 しかし、ドイツとの開戦によって、多くの楽団員が最前線へ出ていくことになりました。

 加えて、ドイツから物流を遮断された市民と楽団員は飢えに苦しむようになり、演奏はおろかラジオ放送も休止されてしまいました。

 指揮者のエリアスベルクは栄養失調で足が腫れ、容易に歩くことができなくなりました。

 一方、ショスタコービッチは、交響曲第7番の作曲の開始の報を知ったスターリンによって隔離され、安全な地でその完成に専念させられました。

 レニングラードを愛し、それをせん滅しようとしたドイツ軍と自ら闘っていたのですから、この作曲には特別の思い入れがあったことから、なによりも曲を完成させることを由誠意させました。

 また、その第1楽章を自らピアノで演奏して、その思いをレニングラードの市民にラジオで伝えられたことを、レニングラードの市民はしっかりと胸に刻んでいました。

 ナポレオンがロシアに侵攻して敗れたのはロシアの厳しい冬をよく理解していなかったことにありました。

 それと同じように、レニングラードの市民を助けたのは、冬になって東に隣接するラドガ湖が凍ったことでした。

 この氷の上に新たな活路ができ、物資を運ぶことによってレニングラードの市民のみなさんの「命を繋ぐ」ことができたのでした。

 渡ることができなかった湖を、いわば自由に渡って物資を届けることができるようになったからでした。

 しかし、この命の道は、すぐにドイツ軍に発見され、爆撃を受けながらも、それを市民が必死で守っていったのです。

 こうして命をかけてのレニングラードを死守する作戦が展開されいましたが、ラジオシンフォニーの放送は長い間停止されたままでした。

 ラジオから流れてくるのは、メトロノームが時を刻む音のみでした。

 ところが、これにいら立ち、腹を立てたのが、当時のレニングラードを治めたのが共産党の総責任者でした。

 「なにか、流すものはないのか!」

 この急転直下の命令がラジオシンフォニーに伝えられ、その活動が再開されるようになりました。

 楽団員の多くが戦場の前線に張り付いたままで、残ったものも食糧がなく、とてもシンフォニーを演奏する力はありませんでした。

 しかし、ここがロシア人の粘り強いところでしょうか、かれらにとって演奏することは生きることであり、その音楽がかれらを支えることに結びついていきました。

 そのような苦難の中で、ラジオシンフォニーの芸術監督パープシキンは、指揮者のエリアスベルクに次の相談を持ち掛けます。

 「交響曲第7番の初演が行われたらしい。これをラジオシンフォニーで演奏できないか?」

 エリアスベルクは、ショスタコービッチがレニングラードの市民に呼び掛けた言葉をしっかり覚えていましたので、それは真に魅力的な提案でした。

 できるかどうかは解らないが、「とにかく、楽譜を取り寄せて見てみよう!」という提案を受け入れることにしました。

 こうして、ショスタコービッチ直筆の楽譜がエリアスベルクの下に届けられました。

 その表紙には、直筆の「レニングラードの街に捧ぐ」というショスタコービッチの言葉が添えられていました

 おそらく、この言葉が、かれの胸を打ち、そして大きく励ましたのでしょう。

 ここから、そのコンサートの準備が始まることになりました。

 それは、優れた音楽が人の心を捉え、偉大な力を発揮させるようになる瞬間だったのでした(つづく)。

mari0125
未だ黄色が色あせない冬のマリーゴールド