2012年の3月にT高専を定年退職して以来、まもなく丸7年になります。

 時の経過は速いもので、私も昨年は古希を迎え、次の山宣(山本宣治、京大教授)の言葉が脳裏を過るようになりました。

 「人生は短し、学問は長し」

 山口県周南市から、この国東に移住してきての6年余を振り返り、新たな年頭を迎えての展望を明らかにしておきましょう。

 少し遡りますが、私が定年を迎えた年は2011年であり、その年の3月11日に東日本大震災が勃発しました。

 その直後に科学技術振興機構から、その震災復興に関する緊急プログラムの募集があり、幸いにも、その申請が採択され、定年を迎える最後の年に、このプログラムを遂行するという慌ただしい1年になりました。

 このプログラムが始まったのが、その年の5月でした。

 折しも、高専では勤務延長という制度が始まっており、助手レベルの給料で2年間の延長を行うことを申請するかどうかを決める必要がありました。

 同時に、当時の校長からは、暗に「どこかの高専のトップになる気はありませんか。私が推薦することもできますが?」という、やんわりした「お誘い」もありました。

 しかし、次の理由で「ここは、きっぱりと辞めて、次の人生を歩んだ方がよい」という決断を行いました。

 ①63歳の定年を2年延長しても、そこで行うことは高専教員の延長であり、定年前5、6年をかけて退職後の準備をせっかく行ってきたのに、それをすぐに生かすことができなくなってしまう。

 ②それよりは、自由に社会に飛び出て、民間企業としての技術開発を世に問うことの方がはるかに有効であり、私の「思い」に合っているのではないか。

 これ以上、高専に拘泥してしまうと、そこから脱皮ができなくなってしまう。ここは、思い切って新しく海に漕ぎ出したほうがよい、このような思いで、新たな移住地である国東に向かいました。

 今振り返れば、この決断に誤りはなかったように思います。

 2つの会社とともに移転した国東は、企業活動には一見不向きなところでした。

 しかし、気候は温暖で、豊かな海の幸、山の幸に恵まれた住みよい地でした。

 各種の情報はインターネットで、そして交通は車で4分の大分空港へ行くことで十分に足りることも明らかになり、この企業立地が企業活動に大きな支障をきたすことはほとんどありませんでした。

 そして、この国東で、光マイクロバブル技術を活用して最高水準の商品化を実現しよう、さらには、その事業化を着実に発展させることめざすようになりました。

 同時に、大分や国東は地方ですので、その再生や復興の方法についても、より深く研究する課題を持つようになりました。

 しかし、この開発と再生に関する事業は、決して平坦なものではなく、真に山あり谷ありの連続でした。

 その最大の谷は、2013年1月に発病、結果的には68日間の入院生活を余儀なくされたことでした。

 そして、その退院後は、ほとんどの企業活動が停滞に陥っていましたので、そのどん底から這い出るために、片っ端から研究開発補助金を申請し、その資金の確保をめざしました。

 そしたら、どうでしょう。

 この申請がことごとく採択され、2013~2015年の間に、合計で5つの補助金を得ての研究開発に勤しむことになりました。

 今振り返っても、これだけの研究開発を熟すことはなかなか大変であり、それなりの、そして相当な苦労を重なることになりました。

 しかし、ここでの頑張りが、じつは今となっては非常に重要でした。

 それは、それらの成果を次々に発展させて実を結ばせることができるようになったからでした。

 以上、2019年を迎えて、その展望を明らかにするために、この6年余の到達過程をやや詳しく振り返ってみることにしました。

 次回は、その具体的な成果の内容についてより詳しく分け入ることにしましょう(つづく)。

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宇佐神宮本殿(二ノ宮)