10980年代から起こってきた高専における自主研究の髣髴とした流れ、それはいったいどのようなものだったのでしょうか。
その一つが、校長サイドから長掛で始まった木更津高専の一般科目教員を軸とした指向であり、もうひとつは全専協における教研集会での議論でした。
後者については、私が若かったせいもあり、その議論は魅力的で新鮮な刺激を受けるようになり、積極的に参加するとともに、そこで発表もするようになりました。
日ごろの職場においては、ほとんど考えたことがないことを熱心に議論していましたので、それはとても刺激的でした。
一方、国専協主催の教研集会にも参加してみましたが、これは真に退屈で、些細なことを美辞麗句で説明する報告ばかりでがっかりしたことを思い出します。
やはり、自由で、全国の英知が集まり、衝突し合うのでなければおもしろくない、楽しくないというのが実感でした。
しかし、今から振り返りますと、その全専協の教研集会でなされた議論には、上記のように新規性やおもしろさがあったものの、未熟な問題がいくつもありました。
おそらく、その未熟性は、全国の高専教育における未熟性と同質のものだったのだと思います。
この教研活動における積極性と未熟性をまとめてみましょう。
1)この教研において取り上げられたテーマは、①教科研究、②学生指導とクラブ活動、寮問題、③高専における研究、④高専の将来問題などでした。
当時の高専は、それが創立されて20年が過ぎたころですので、設立当初から発生してきた問題が、いくつも噴き出してきていて、それらにどう立ち向かうかという姿勢がみなさんのなかに宿っていました。
そのために、一番人気があって熱心な議論が交わされたのが上記②の問題でした。
これには、当時もっとも進んでいた大阪府立高専の実践がみなさんの注目を集めました。
とくに、萩原保一先生(電気工学)の教育論はすばらしく、かれとは大いに議論を交わしていくことになりました。
また、①においては、木更津高専の五十嵐譲介先生の一般科目「特別研究」の報告も注目されました。
かれとは、山口県下松市で開催された全専協教研の懇親会の席で長々と語り合って互いに「我が意を得たり」となりました。
因みに、本ブログは、かれの勧めによって始めることになりましたので、本ブログの恩人ということができます。
また、かれは、何代目かの松尾芭蕉の俳句継承者だ、とのことでした。
2)一方、①と③、④は、まだ始まったばかりという議論で終始していました。
正確には、①の議論がなされるようになり、そこから③へと分岐し、④は新たに加えられたテーマでした。
①に参加してみて、私は、高専における教科研究がほとんど進展せずに、未熟なままに推移していることをしりました。
わずかに、一般科目においては、教科書作りや「木更津特研」の取組がなされようとしたいましたが、専門科目においては、目を見張るような実践報告はほとんどありませんでした。
そこで私が発表したのは、「高専教育における技術論の有用性」に関することでした。これは新鮮に受け留められ、何人かの方々に強烈に受け留められましたが、それが大きく波紋を広げることにはなりませんでした。
それでも、吉田喜一(東京都立航空高専、当時)先生と一緒に高専教育における技術論研究に関する新聞を発行したこともありました。
しかし、未熟であっても、みんさんの議論は熱心でしたので、ここから、その輪が徐々に広がってきて、多彩な実践報告が出てくるようになりました。
与えられたカリキュラムの教科を熟すだけでなく、そこにどう工夫を施し、学生にわからせるか、それを達成させるには、どのような問題点があるのか、これらを深く掘り下げるような議論が生まれるようになりました。
私は、なぜ、高専教員は、自らの教育に関する研究を行い、それを論文化しないのかということをいつも疑問に思っていました。
高専は教育を行うところだと声高にいう教員に限って、その教育論文を書くことには不熱心であり、かれらの教育には進歩がなく、経験主義に凝り固まっているのではないかと密かに思ってきました。
3)とくに、重要だったのは、③の高専における研究の問題を真正面から討議し始めたことでした。
この分科会への参加者は少なかったですが、そこでの議論は魅力的で、高専における研究論が生まれたことが、その後に重要な影響を与えていきました。
当時は、「高専は教育機関であり、研究機関ではない」といって研究を軽んじる意見が堂々と横行していましたので、高専における研究は、教員が個人的に行うものだということになっていて、それを広く論じる傾向はほとんど一部に限られていたことでした。
これに関連しては、F先輩のことを思い出すことができます。
かれは、私よりも数年先輩であり、大学院の修士課程を修了されて高専教員になられました。
かれは、高専では研究をするところではないという環境のなかで、相当に悩まれ、やがて自室に閉じこもって何もしなくなりました。
しばらくの間、与えられた教育のみに携わっていましたが、あるとき、そのかれの先輩から研究の協力を依頼され、それを手伝うなかで、徐々に研究する心が芽生え始めていきました。
しかし、その時には、高専の教員になって、相当の年月が過ぎ、40歳台になっていました。
この先輩の偉いところは、そこから一念発起して研究をし始め、大学との共同研究、学会活動を行うようになり、その成果を上記の教研においても報告するようになったのでした。
また、当時、日教組大学部の機関紙「大学部時報」に掲載された「高専における研究」の論文も、感動を込めて読むことができました。
これらには、個人のレベルから組織的な議論への転化があり、高専における研究の萌芽がなされた瞬間でもありました。
ここで重要なことは、これらの議論が、高専教員としての自立問題と連動して考究され始めたことにありました。
それは、高専教員として立派に教育に励みながらも、研究に勤しむという新たな高専教員のモデルが登場してきたことを意味していたのでした。
今では、当たり前のことといえますが、その当たり前は、このような先輩たちの苦難のなかでの貴重な努力によって積み重ねられ、確立されてきたものだったのです。
次回は、上記の④についてより深く分け入ることにしましょう(つづく)。
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