本日は、久しぶりに大分市に出かけました。

 最初の訪問地は「大分県産業創造機構」でした。

 ここで、ご推薦の補助金申請の説明を受けました。

 これまで、なかなか採択がなかった案件だそうで、この数年間は力を入れて採択数が徐々に増えているとのことでした。

 それから、もう一つの目的であった田能村竹田の絵画を大分県立美術館まで観に行くことにしました。

 その産業産業技術創造機構とは、すぐ近くのところ目当ての美術館がありました。

 早速、受付で、

 「田能村竹田展を行っていますか?」

 こう尋ねると、「竹田の絵を見ることができる」というので、その3階の展示室に向かいました。

 たしかに、竹田の絵画3枚が展示されていました。

ーーー おかしいな、たった3枚しかなく、これで田能村竹田展といえるのか? それに、新聞において特集されていた絵と違う絵が出されているようで、どうなっているのか?

 どうも、理解が困難になって、美術館員に尋ねました。

 「あのー、あの竹田の絵は新聞に掲載されていた絵と違うようですが、竹田の絵の展示は3枚だけですか?」

 こう尋ねられても、彼女の方もよく解らないようで、「ちょっとお待ちください、聴いてきます」いって、相談に行かれました。

 しかし、なかなか返事をもらえず、再び竹田の3枚の絵を鑑賞していました。

 そしたら、別の高校生らしき館員が、スマートフォンを差し出しながら説明にきてくれました。

 「もしかして、この竹田の絵のことですか?」

 かのじょの説明によれば、その絵は、大分市立美術館に展示されているとのことでした。

 どうやら、田能村竹田展は、そこで開催されているらしく、それを私が間違えて、この大分県立美術館に来てしまったようで、ようやくその間違いに気づきました。

 目当てだった大分市立美術館は、遠いところにあるらしく、そこまで行くことを諦め、改めて竹田の3枚の絵を鑑賞しました。

 その3枚とは、花、山水画、竹藪のスケッチでしたが、私が心を奪われたのが最後者でした。

 わずか20㎝四方の広さのスケッチブックに、その竹藪の絵が丁寧に描かれていました。

 まず、その繊細な描写に心を奪われました。

 太さ1㎜以下の筆先で丁寧に描かれた竹藪のどこにもミスタッチがなく、きれいな線と点で描かれていました。

 描かれていたのはスケッチブックのようなもので、おそらく、下書きのようなものだったのでしょう。

 竹田の絵画をネットで検索してみましたが、この絵はありませんでした。

 構図もすばらしく、これは尋常な絵描きではないことを改めて悟りました。

 上述の特集された新記事によれば、このような繊細な心を持った竹田は、周囲の人とちよりも、全国的に名の知れた学者や歌人などとの交流を好んだようです。

 医者の息子として生まれましたが、それを諦めて学者になることを決意し、藩の仕事として文書の編纂を行っていました。

 それゆえ、学問に明るく、書にも優れていました。

 37歳で隠居生活となり、その後は旅をしながら、絵画や書の研鑽を積みましたが、生活にはいつも苦労していて、その赤貧さが絵にも深く現れるようになりました。

 苦労を重ねながら、学問を究め、絵や書を描き続けたのですから、そこに竹田の洗練さ、卓越した優秀さがあったのではないでしょうか。

 かれは、大分県が生んだ優れた学者、芸術家ということができるでしょう。

 さて、その田能村竹田には、小さな思い出があります。

 小学生の頃だったか、あるいは、中学生だったかもしれません。

 当時、大分全県下で田能村竹田絵画コンテストが開催されていました。

 これに、私どもの絵を、先生が応募されたようで、これに近所の同級生の憲ちゃんと私が入賞したことで、全校生徒の前で表彰されたことをよく覚えています。

 その憲ちゃんは第1位、私は3位だったようで、その時いただいた小さな盾を、その後も大切にしてきました。

 大学生になって家を出る時にも、それを持参し、机の上において眺めていました。

 なぜなら、私は、その受賞を前後して絵を描くのが好きになり、よくコンテストで入賞するようになったからで、なにか自分に自信を得たような気になったからでした。

 おそらく、今も、その思い出の盾が、西邸の書斎のどこかにあるはずです。

 今度それを探してきて、昔と同じように、今の机の上に置くことにしましょう。

 人生の先々で、なにかと励ましを受けた小さな盾、それを手にして、幼き頃の熱き想いを思い出すことにしましょう。

 初めて観ることができた田能村竹田の絵、それは、幼きころの熱き思いを蘇らせてくれました(つづく)。

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チェリーセージ(大成研究所前庭)