6年前に山口県周南市から故郷の大分県に帰る際に、家族のなかで重要な決定がなされました。

 すでに、山口大学発ベンチャービジネス企業として発足していた(株)ナノプラネット研究所と、その販売会社であった(株)ナノプラネットをどうするか、これが問題でした。 

 私としては、高専における定年延長を申請せず、この両会社を支援することが一番良いと決めていましたが、これを担う人々が必要でした。

 幸い、今の相棒(YO)が、「一人になってもやる」という強い意志を示されましたので、それを尊重することにしました。

 また、国東市への移住は、数ある候補地のなかから、空港に近いことが決定的要因になり、そして向陽台という環境のよいところが見つかることで決まりました。

 高専時代は、ずっと官舎住まいでしたので、退官と同時に家を設ける必要があり、「東日本大震災緊急支援プログラム」を研究代表者として熟すなかで、わが家の新築を計画することになりました。

 しかし、両方への対応は無理だったので、後者は家内が担当することになり、今の西邸が、2012年3月にでき上りました。

 この建築においては、プラスエムの山中省吾社長に大変お世話になりました(この建築が評判になり、かれの会社は大きく飛躍することになりましたので、かれにとっても重要な仕事になったそうです)。

 この時の設計において、上記の2つの会社の事務所を南側に配置し(向陽台における建築上の決まりで、50㎡以下の事務所を設けてよいことになっていたので、ぎりぎりの50㎡で設計)、中庭を挟んで北に2階建ての住居を構えることになりました。

 この西邸では、自分の「書斎兼寝室」を作っていただき、本の山に囲まれたなかでの生活が始まりました。

 この環境が、あまりにも凄(すさ)まじかったのでしょうか。

 ここに入ってきた3才の孫が、立ちすくみ、いきなり泣き出したこともありました。

 私の夢は、上記の2つの会社を支援しながら、小さくてもよいから自前の研究所を建てることでした。

 この間、景気の良い話もなくはなく、「研究所ぐらいだったら、すぐにできますよ」という申し入れもありましたが、案の定、その話は立ち消えになりました。

 「他人を頼っていてはいけない。自前でなければ意味がない!」

 しかし、新築したばかりで、まず「先立つものがない」、「土地も確保していない」、という状態でした。

 「これは、見果てぬ夢に終わるのか?」

 真に、ドン・キホーテの心境でした。

 さらに、不幸が私の身体に押し寄せてきました。

 新築の中庭で、スリッパを履いたままで大工作業を行い、足の親指に大きな豆ができて水膨れしていました。

 不幸にも、医者に行くのが嫌いな私は、それを自分で針を刺して潰しました。

 それが元で、そこから黴菌が入ったのでしょう。

 そこが化膿し、膨らんできました。

 さらに、私の医療無知が、その事態を悪化させていきました。

 「丁度良い、これをマイクロバブルで治してみよう」

 この無謀が、さらに、私を窮地に陥らせ、最後には生死を彷徨って入院、手術へと向かうことになりました。

 「なんと愚かなことをしたことか!」

 今思えば、そのことがよく解りますが、手術によって切り落とした右足の膝下は、恥ずかしいことに、その「愚かさの証」といってもよいでしょう。

 しかし、今振り返っても、ふしぎなことがありました。 

 その第1は、入院中に、身体は動かずとも頭は回転していたのでしょうか、次の決断をしたことでした。

 「今すぐに、家の東側の土地を購入してください」

 土地購入の理由はなく、一種の防衛反応だったのでしょうか。

 真に、あいまいな理由のまままでしたが、その土地購入手続きを済ませました。

 たしか、当時の土地代は、坪7~8万円であり、手持ちの金で約120坪を購入できたことが幸いでした。

 この土地購入で手持ちの「先立つもの」がすっかり減少し、しばらく、隣の空地を眺めるだけの日々が続きました。

 もちろん、新たな土地を取得したことへの後悔はありませんでしたが、その目途は立ちませんでした。

 それよりも、しっかり足元を固めねば、という思いが強く、新たに生まれかえった気持ちになって、2つの会社を支援することに専念することが先でした。

 そして、いつしか、隣の土地のことは、すっかり忘れていました。

緑砦館
プラスエムの設計プラン(右が東邸、南側は大成研究所)

 第2の転機は、2016年4月末に起きた熊本・大分地震でした。

 じつは、私の姉が別府に住んでいて、その被災を受けました。

 幸い、わずかな被害でしたが、精神的なダメージもあり、おまけに、それまで住んでいた借家を出ていくことになったそうでした。

 その姉を訪ねた際に話が盛り上がり、共同で家を建てることがトントン拍子で決まりました。

 南側は研究所、北側は姉の住居にする、これを基本として、すぐに設計が始まりましたが、問題は、姉が借家を出る期日まで3カ月しかなく、どんなに急いでも、それに間に合わせることは無理だと建築会社にいわれたことでした。

 姉は、その日に間に合うことに拘っていましたので、それが難しいとなると心変わりが起きたようで、とうとう、この話は御破算になってしまいました。

 「このような話になって申し訳ありません」

と山中さんにお詫びし(かれは、その結果をやさしく受け留めてくれました)、「さて、どうしようか」と思案を繰り返していました。

 「せっかく、知恵を絞って考えた建築プランだったのに、当てにしていた『先立つもの』がなくなったので、これ以上は前に進めることはできない」

 そう諦めかけていた矢先、うれしいことが2つ舞い込んできました。

 それは、お金を貸していたところからの返金があったことでした。

 これが「第3のふしぎ」でした。

 それらの合計は、姉が出資しようとしていた額をはるかに超えていました。

 「これで、念願していた研究所を建てることができる!」

 こうして死にかけていた建築プランが復活し、プラスエムの山中さんにも大いに喜んでいいただくことができました。

 人生とはふしぎなもので、あの入院がなければ、隣の土地を急いで購入することはありませんでした。

 そして熊本・大分地震がなければ、姉と共同の家づくりの合意もありませんでした。

 さらに、関係者のみなさんの努力がなければ、借金の返済が舞い込んでくることもなかったはずです。

 こうして、「3つのふしぎな偶然(?)」が重なり、東邸の建築が可能になったのでした。

 人生とは、真に「ふしぎなもの」で、何が起こるかわかりませんね

 これも、前向きに考えるならば、片足を無くした「おかげ」でしょうか。

 次回は、東邸の「棲みごこち」について分け入ることにしましょう(つづく)。

huusenkazu0813
フーセンカズラ(大成研究所前庭)