高専の歴史において第二期を迎えることになったのは、国専協(国立専門学校協会)によって、それまでの高専教育のあり方が全面的に見直され、それが『高専の振興方策』として示されたことにありました。

 これは、それまでの「実践的技術者の養成」、「中堅的技術者の養成」、「大学に準ずる」の、いわば3枚看板のうち、後ろ二者を取り外したのですから、高専教育にとっては大きな路線変更を意味していました。

 この2者の替わりに、あらたに「豊かな人間性」を養うことが加えられました。

 これは、一部において、学生たちが高専教育についていけないという現象があり、大量留年、少なくない退学者の出現という事態も目立つようになっていたことの反映でもありました。

 また、「中堅技術者の養成」という看板外しは、それが「紛らわしくて誤解を与えやすい」という主旨のことが理由とされていました。

 さらに、「大学に準ずる」という看板外しは、質よりも量的な側面に力点が置かれたことによるものでした。

 今振り返ってみると、この修正は、次のような特徴と問題点を有していたように思われます。

 ①「実践的技術者の養成」とは何かの探究が不足し、単に実験実習の時間を増やして教えるという次元に留まっていた。

 技術は、時代の進展に伴って常に変化していくもので、それに応じた究明がなされず、また、それを実現する研究者集団も形成されていなかった。

 ②「中堅的技術者」の究明がなされず、上級、中級、下級という機械的説明が通用しなくなった。

 自ら説明できないものは、紛らわしいから削除しようという意図が働いたのであろうか。

 もともと「中堅」という意味の解明、意義づけが曖昧であったことが、その理由であったように思われる。

 高専は、産業界の養成で、高度成長に備えての労働力不足対策として設立されたことから、その時点においては、明らかに高専の在り方に関する研究不足が存在していた。

 ③大学4年分を2年で教える、これが「大学に準ずる」ことだと理解して教育を行う教員がほとんどであり、その質的意味を深く追究することはほとんどなされていなかった。

 また、大学教育の利点と欠点を深く探究し、それらを明らかにして高専教育との比較研究を行うことも、ほとんどなされなかった。

 折しも、日本は1980年代に入り、「黄金の80年台」、「奇跡の30年」を謳歌しようとしていました。

 高専の現実は、この好景気に引きずられて動いていましたので、この『高専の振興方策』によって、高専が変化することはほとんどありませんでした。

 これは、ある意味で当然のことであり、その改定は、否定的部分のみを削除したことに留まり、高専の未来像を明らかにして具体的な振興方策を示したわけではなかったからでした。

 高専が設立されて以来の20年のなかで、その当初の目標が通用しなくなり、次の20年にふさわしい高専像を描くことができなくなっていた、ある意味で、その反映が、『高専の振興方策』であったといってもよいでしょう。

 しかし、このような情勢の下であっても、それは次の2つの「確かな潮流」を生み出すことになりました。

 1)高専の校長のなかに、「このままでは、高専の存在意義が無くなってしまう。新たな意義を見出す必要があるのではないか」という声が出始め、今後の高専の在り方を積極的に研究する必要があるという主張がなされた。

 また、その一部においては、高専の将来問題が論じられるようになり、「6年制高専」、「専科大学への名称変更」論が登場してきた。

 2)「全専協(全国高専教職員組合協議会)」運動のなかで、自主的に「教科研究」、「学生指導」、「高専を担う人々」、「高専における研究のあり方」、「将来問題」、「若手教員問題」などに関する論議がなされるようになり、それがじわじわと発展し始めた。 

 ある高専では、この1)と2)の潮流が合流する事態も形成されるようになり、この自主的研究の機運が急速に高まる事態も生まれました。

 次回は、この2つ流れのなかに、より詳しく分け入ることにしましょう(つづく)。

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大きなカサブランカ(沖縄市にて、8月24日撮影)