想像しがたいほどの「多重大困難な時代をどう生き抜くのか?」、これが、講演の前半における私の「問題提起」でした。

 その活路を、どう見出してゆくのか。

 これを探究するために、これまでの高専教育を振り返ることにしました。

 その最初のスライドを以下に示します。
 
2018-09-12 (2)
高専教育における活路の探究

 高専教育の歴史は、約20年ごとに、次の3期に大別されます。

 第1期:1961~1980年(創成期)

 高専が当時の産業界の養成で創立され、緊急に労働力不足を補うことが求められました。

 創立当初の目標は、「実践的技術者の養成」、「中堅的技術者の養成」、「大学に準じた技術者教育」の3つであった。

 高専教育の内容は、当時の東工大のカリキュラムをモデルとしたことから、高専教育は「大学に準じた」ものとなりました。

 また、実践的技術者の養成に関する理論としては、「理論」は大学が担い、「実践」は高専が行うという区別がなされ、その具体化として、高専では、多くの実験実習の時間が設けられました。

 さらに、「中堅技術者の養成」に関しては、当時、東京大学を中心とする旧帝大において「上級技術者」、地方大学において「中堅技術者」、高校において「下級技術者」という、それぞれの目標があり、高専は、この地方大学と同じ目標を与えられたのでした。

 そして、この20年間は、その目標に基づいての新たな教育実践が行われましたが、その過程で、次の問題点がしだいに明らかになりました。

 ①高専における「実践的技術者教育のあり方」に関する探究が十分に検討されず、多く設定された「実験実習」を熟すことに収斂していった。

 ②大学5年分を高専4、5年生の2年分で教えることが「大学に準ずる」ことだという解釈がなされるようになり、猛烈な詰め込み教育がなされるようになり、その歪が出現するようになった。

 ③高専教育に関する自主的な研究がほとんどなく、内発的で創造的な教育開発の議論は、当時の組合運動の一部にしかなかった。

 たとえば、「高専教育」は1977年に創刊されたが、当時の執筆者は、ほとんど高専の校長ばかりであり、教員による教育研究の実践事例は皆無であった。

 これは、高専における教員の内発的な教育研究がほとんど芽生えていなかった証拠のひとつといえよう。

 ④当時の国専協会長の慶伊富長氏は、高専を「専科大学」へと移行させようとしたが、その折に、実践的技術者教育のあり方を深く探究する必要性を強調されていたが、それも「専科大学騒動」のなかで霧散してしまった。

 こうして、高専の第1期は、少なくない問題点を顕わにしながら、それを見直すことが余儀なくされるようになりました。

 次回は、第2期以降の高専教育について分け入ることにしましょう(つづく)。

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白い紫陽花(沖縄市にて、8月20日撮影)