鎖国時代の日本において、江戸が断トツの世界一の都市となり、ここで高度な都市文明が栄えました。

 文書交換によるビジネス、東西を行き来する情報と物流、そして職業の細分化と高度化が図られました。

 この決め手になったのが参勤交代でした。

 磯田は、このように主張し、これが明治以降の近代国家の土台になったことを強調されていました。

 これを聴いていて、私がふと想起したのは、高専50年余においても、同じようなことが起きたのではないか、こう思ったことでした。

 周知のように、高専は全国の地方都市に設置され、その都市と周辺からの中学卒業生を受け入れますので、高専同士が入学生を奪い合うということがほとんどありません。

 これは、偏差値によって輪切りにされいる大学に、全国から集まってくる事情とは大きく異なっています。

 たとえば、私がかつて赴任していた琉球大においては、沖縄県の出身者がほとんど合格できないという時期もありました。

 高専では、それがなく、ほぼ地元からの入学者を迎えることができましたので、ここで、高専生を通じての保護者や地元の人々との交流が可能になり、そこに、地域に根ざすことが可能な条件の形成がありました。

 また、高専の多くが国立系でしたので、当初から地方の教育機関との親密な連携は少なく、ある地元の自治体の首長が、「高専は国立だから敷居が高い」といってはばからないこともありました。

 一方で高専側も、当初は保守的な指向があり、地域から優秀な入学生を受け入れながらも、その学生を育てて中央に送りこむことで精一杯の時期もありました。

 しかも、高専は、その設置当初から、高等教育機関でありながら、研究機関としては認められず、高育機関のみであるという片肺飛行でしたので、ここから様々な歪みや後退現象が生まれることになりました。

 その最も大きな問題のひとつが、1時間の講義を年間30週も行うことで1単位とするというカリキュラムを設けたことでした。

 これによって、高専生は、大学生よりも約2倍も多く学習するようになりました。

 朝の8時半から夕方の5時まで、まったく空き時間がなく、それが月曜日から土曜(半日)まで、それこそ鮨詰め状態で勉強させられました。

 教える側の私も、これは過密すぎる、これでは勉強そのものが嫌になってしまうのも無理はないと実感していました。

 しかし、高専生には、勉学に対する真摯なひたむきさがありましたので、それでも、その困難を乗り越えていく資質がありました。

 その後、この超過密教育法は、ずいぶんと緩やかにされましたが、これに関連しては、日本技術者教育認定機構(JABEE)の審査において、とても皮肉なことが起きました。

 この審査には、「総学習時間」という1年間で学生が勉強する総時間のことですが、大学側の教員は、これを2000時間から1800時間に削減したいという申し入れがあり、現在は、この1800時間が定着しているはずです。

 私にいわせれば、大学は高専の半分の時間しか教えていないので、「学習時間が不足しているのではないか」という疑問を有していました。

 JABEE関連の委員会において、面と向かって、その本音を吐露したことはありませんが、高専の層学習時間は、約2300~2400時間にもなりますよ、と発言した記憶はあります。

 1800時間と2400時間、この差は600時間もありました。

 この差を考えると、大学は不足気味、高専はやや過剰気味の学習総時間ではないかと今でも思っています。

 今一つは、校長が何でも決めるという「校長先決体制」が横行していたことでした。

 教員会議においては、教員に審議はさせても、私どもに決定権はなく、最後は、「校長に決めていただく」というフレーズが毎回お経のように唱えられていました。

 なかには、この先決体制を曲解された校長もおられたようで、そこでは、教員会議を開催しない、人事と予算、それからすべてのことを校長が決めることをとことん徹底されていた高専もありました。

 このような高専では、その校長先決体制にすがるしかなかったのでしょうか、すべてがしだいに停滞し、「遅れた高専」になっていきました。

 ところが、これも皮肉なことですが、このような誤ったワンマンぶりを発揮できなくなったのが、「高専機構」という上位機関が設定されて以降のことになりました。

 なかには、「私は、高専機構の支店長のようなものですから」と、堂々と公言する校長が出現し、よい意味での高専の独自性は、徐々に薄らいでいくことになりました。

 これらは、徳川幕府と各藩の殿様の関係に似ている部分はないでしょうか?

 これらは、さほど大きな問題ではありませんが、私が注目したのは、高専という独特の教育体制の中で、そのなかの矛盾や困難の多さがゆえに、悩み苦しみが生まれ、それとの闘いのなかで、新たな知恵や工夫が産み出されていったことです。

 これを、ここでは「高専文化」と呼ぶことにします。

 この文化は、良心的な高専生と高専教員による悩みと苦しみ、それらとの闘いのなかで生まれることになりました。

 次回は、その高専文化に深く分け入ることにしましょう(つづく)。
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ブルーセージ(大成研究所前庭)