磯田が提唱した「反実仮想」を高専に適用してみましょう。

 まずは、300年鎖国状態が続いた日本の首都江戸と高専を比較してみましょう。

 「江戸を高専に置き換えてみたら、どうなるのであろうか?」

 ふと、「これは、おもしろそうだ!」と、この反実仮想を思いつきましたので少々深く思案してみることにしました。

 周知のように、徳川幕府は鎖国によって外国の情報や文化の流入を閉ざしてきました。

 そのせいでしょうか、江戸は世界一の人口となり、独自の技術や経済、そして文化が形成されるようになりました。

 国家の形態は軍事国家で、それを支えたのが旗本という直轄の軍事組織と各藩であり、後者には参勤交代が義務付けられました。

 将軍様という君主の下での中央集権国家が形成され、定着したのでした。

 江戸時代の藩の数は、最大時で250~260、当初は180程度だったのが、徐々に増えていきました。

 現在の都道府県の総数が47ですから、藩の数は、その5倍余に達していたことになります。

 たとえば、それを大分県のエリアで見てみると、江戸時代には13の藩が存在していた時期があります。

 その大半が小藩ばかりで、このように細切れにした方が、幕府として統治をしやすかったのではないかと思われます。

 一方、高専は、どうでしょうか?

 現在の総数は57、国立51、公立3、私立3の内訳です。

 その特徴は、大都市の東京、大阪、名古屋、福岡などにおいて国立系の高専がなく、そのほとんどは、全国の地方都市に分散して設立されています。

 地方の国立大学のほとんどが県庁所在地に設立されているのに対し、高専は、その規模において第2、第3の地方都市に主に設立されています。

 また、地方大学において、その設立時に工学部がないところでは、大分、松江などにおいて県庁所在地における高専の設置がなされており、地方の国立大学との競合を避けて分散させたことが見てとれます。

 因みに国立大学の数は86、国立高専は51ですので、その比は1.7対1になります。

 その意味で、高専が全国に分散されて設置されていること、これは、江戸時代の幕藩体制における分散性とよく類似しています。

 徳川幕府と全国の藩の関係は、どうだったでしょうか。

 徳川幕府は、全国各地に天領を持っていましたので、そこから税収を上納させるということが主で、各藩の年貢を大幅に召し上げるということはせず、経済的には、各藩に委ねるという方式での統治を行っていました。

 藩には、殿様がいて、年貢の取り立てを始めとして諸々を取り仕切っていました。

 そして各藩には武士がいて、年貢を納める農民と商いを行う商人もいました。

 各藩には、幕府の命令以外には、ある程度の自治と裁量が与えられていて、殿様には、そこを治める背金にもありました。

 一方、高専はどうでしょうか?

 軍事機能は持たない教育機関ですので、当然のことながら年貢を取り立てる制度や権限もありませんでした。

 その意味では、この両者には、比較にならないほどの相違点がありますが、江戸幕府が各藩における藩主による統治と裁量という自主性を認めたように、つい最近までの高専においては、個別の高専における統治と裁量がある程度認められていました。

 江戸時代においては、殿様に藩のすべての権限が集中し、何事も殿様の許可なしに行うことができませんでした。

 これは、高専も同じで、すべては校長の許可なしには何もできず、学生が発行するポスターやチラシにおいても校長の許可が必要とされていました。

 それは教員においても徹底されていて、教員会議は開かれても、そのすべての合意や決定事項については、最後に校長が決定するという方式が貫かれていました。

 これは、「教授会や教員の自治」を認めなかったことから、「校長先決体制」と呼ばれていました。

 この先決が好きな校長は、年に一度も教員会議を開催せず、予算や人事もすべて自分で決めてしまいました。

 しかし、なかには、このような独裁めいたことを嫌う校長もかなりおられ、教員を信頼して一緒に教育の諸々を行った方がよいと考えられる方もいました。

 こうなると、校長しだいで高専教育やそれに関する諸々が、非常に上手くいく場合と、逆にそうではない場合が生まれる事態となり、これによって高専格差が発生することになりました。

 学生においては、毎年100名近い退学者・留年者が出る高専と、数名しか出ない高専が出現するようになりました。

 教員については、堂々と出張届を出して学会発表に行ける高専と、学会に行くことを隠して、そのために年休を取って学会に出る高専が生まれました。

 これは私がかなり若い時に直に聞いたことでしたので、「高専は、こんなところなのか」とショックを受けたことを今でも鮮明に覚えています。

 高専には教職員組合がありますが、そこでは「西高東低現象」があり、そのほとんどは西日本にあり、東日本には、それがない、これを「西高東低」と呼んでいました。

 そのためでしょうか、西の常識が、東の非常識といってもよいことがいくつもありました。

 この件(くだり)は、とても長くなりそうなので、まだ途中ですが、ひとまず、ここで筆を休めることにしましょう。(つづく)。

kinnsennka
kinnsennka
これもキンセンカでしょうか