このビッグインタビューは、冒頭の「反実仮想」に関する指摘に続いて、さまざまな展開がなされていきました。

 磯田は、江戸以来の近現代史を俯瞰しながら、外交の在り方について言及しました。

 日本の外交が本格的に始まったのはペリーの来航であり、その江戸時代に関する磯田の指摘には驚きました。

 元禄時代の江戸は、世界一の都市であり、その人口は、第2位の北京の100万人をはるかこえて130万人に達していたそうです。

 しかも、この時代の日本の人口の5%に達していた、すなわち20人に一人が日本人であったそうで、これは驚きの指摘でした。

 しかも、米国ドルと日本の円の価値は同じであり、1対1での通商が始まったそうで、この時期のGDP比較では、日米で1対1.75だったとのことでした。

 これが日米開戦時に1対5にまで広がり、敗戦後は、1対360円にまで後退しました。

 現在は、それが1対110前後になっていますが、とてもペリーの時代にまで戻る気配はありません。

 そして、かれは、長い日本の歴史のなかで1970年代からの30年を「奇跡の30年」と呼び、この間に、日本は世界第2位のGDP生産を可能したことが注目されていました。

 とくに、中国との比較においては、人口が10倍少ない日本が、その中国よりもはるかに多いGDP生産を成し遂げことが強調されていました。

 しかし、時代は変化するものであり、日本は、その中国にはるか追い抜かれ、世界第3位のGDP生産国に落ち込みました。

 ここで、かれの卓越した歴史観が示されます。

 この「奇跡の30年」を実現させた近代日本の原型は、江戸時代において準備されていたというのです。

 上述したように、当時の江戸の人口は130万人、第2位が北京で100万人、ロンドンが90万人、パリが60~70万人だったというのですから、いかに江戸が断トツに優れていたことがよくわかります。

 そのような世界一の繁栄を可能にした決め手は、「参勤交代」にあったというのですから、この考えには興味をそそられました。

 周知の当時の日本は、徳川幕府を中心にした軍隊国家であり、その配下にある全国の藩が定期的に江戸に集まってくるのですから、それによって次のようなメリットが生まれました。

 ①都市の文化が発達し、とりわけ、文字による共通の文化が進展した。

 その結果、識字率が向上し、武士と農民、商人の取引も文字を通してなされるようになった。

 ②商品の流通が活発化し、たとえば東北の農産物が、西日本で売られるようになった。

 ③社会分業が発達し、職業の細分化、洗練化が進んだ。

 ④寺子屋による庶民教育が発展した。

 当時の江戸の寺子屋数は14,000であり、現在の全国の小学校数16,000とほぼ同数である。しかし、当時の人口は今より4倍少ない。

 ⑤参勤交代により、経費が地域に落ちるようになり、地域経済が潤った。

 このように高度な都市文化、流通経済、教育の発展によって、数々の発明、技術開発が高度に進展し、それらは世界水準を上回っていたとのことでした。

 ここには、軍隊国家でありながらも、一度も対外的な戦争を行わずに平和が維持され、独特の高度な都市・流通・教育文化の醸成がなされたことに小さくない意味があり、それがあったからこそ、明治150年間の発展が成し遂げられたのではないかという。かれの指摘はまことに鋭いものでした。

 このような、かれの指摘に驚きながら、私は、いつのまにか、この江戸時代の日本を「高専」に置き換えてみたらどうなるのか、そのことを考え始めていました。

 江戸幕府を中心とする軍隊国家は、かれら自身が準備をしてきたものではありません。

 数々の戦国大名、織田、豊臣という類まれな武将によって、その国づくりがなされ、その土台を受け継いだのが徳川でした。

 その徳川300年の土台の上に、上述の都市文化が形成され、花開いていったのでした。

 それでは、高専の50年余はどうだったのでしょうか?

 はたして、そこに高専文化が生まれたのでしょうか?

 次回は、そこにより深く分け入ることにしましょう(つづく)。

moniki
木漏れ日のなかの「紅葉(もみじ)」