知的興奮の坩堝に分け入ることになった2つ目は、ある大学教授との面談でした。

 この先生は、ある大病院の理事長から、「ぜひお会いしたらどうでしょうか」と、私への面会を強く勧められたそうです。

 そこで、しばらくの会話を終えた後に、先生のご研究に関するプレゼンテーションをしていただきました。

 エキスがぎっしり詰まった中身のあるみごとな「プレゼン」でした。

 そのなかで、「おやっ」と思うことがありました。

 先生にとって、それは、そんなに注目するようなものではなく、むしろ当然のようなことでした。

 しかし、それは、とても重要なことでしたので、再度、その確認のための質問をしました。

 その返答は、たしかなもので、先生にとっては疑いのない結果だそうで、真摯で自然な返事でした。

 「やはりそうでしたか。この確認は、わたしにとって非常に重要なことです」

 こういいながら、私は、それまで抱いていた、もやもやが一度に消え去っていったように思いました。

 「視界が開けた!」とは、このようなことをいうのでしょうね。

 その時から、心の一隅に、いいようもないワクワク感が湧いてきて、それが徐々に強まっていきました。

 心が動くとは、このような坩堝に分け入ることをいうのでしょう。

 「それが、動かしようもない事実であれば、いくつもの疑問が解けていく!」

 科学においては、常に疑問が生まれ、それが「なぜなのか」を問い続け、「こうではないか?」という仮説が設けられます。

 そして、それを「どう実証するのか」、これらを究明するという次の過程(プロセス)があります。

 その謎が深ければ深いほど、そして、大きければ大きいほど、その解明には時間がかかり、さまざまな試行錯誤や探索において少なくない知恵と工夫が必要になります。

 たいがいの場合は、それでも容易には解明できずに、それが脳裏に横たわったままとなり、最後には諦めて放置してしまうしかないことも珍しくありません。

 しかし、偶に、そこに光が照らされ、思わぬことで、その謎が解けていくことがあります。

 今回は、その場合のようであり、

 「これは、小さくない解明になる」

と思いました。

 そして、この謎が解かれた後には、それを踏まえた「明察」の段階に分け入ることになります。

 「そうであれば、これとは異なることになる」、

さらに、

 「そうであれば、これまで指摘されてきた現象の説明とともに、その現象間の矛盾も説明できるようになる!」

 こうなると、とてもうれしくなり、喜びが込み上げてきます。

 科学的究明を行う際に、それが真実であるかどうかを確かめる目安として、1つや2つ程度の問題が解けるのではなく、数個の疑問が一挙に解明できる場合には、それは、おそらく、ほとんど間違いではないであろうという思いに至ることができます。

 そして、その思いと共に、それをさらに実証していくという過程を辿っていくことが加わっていきます。

 これが「明察」と呼ばれることではないでしょうか。

 この過程においては、じつに楽しく、そしてゆかいな想いが、次々に湧いてきます。

 「そうであれば、これまで私が行ってきた、あるいは私どもが切り拓いてきた世界(当然のことながら、それは『光マイクロバブルの世界』ですが)の諸々は、こうなる!」

 それが特別で、他にないものであれば、さらには、それが小さくない意味を有し、その再確認がなされるものであれば、なおさら、その重大性に気づくことになります。

 そして、その問題は、これまで、おぼろげに描いていた仮説がより明確になり、

 「やはり、この仮説は正しかったのか!」

 そう思うと、そこはかとなく喜びが心の底から湧いてきて、にんまりと微笑みが浮かんでくるようになります。

 「そうであれば、次の仮説も成り立つはずだ!」


 こうして、この明察は、次の段階に分け入ることになります。

 ここまでくると、この新たに観えてきた世界は、かなり広くなっていますので、さらに詳細で系統的な明察を行うことが求められるようになります。

 当初の喜びは消え、それは、

 「知的おもしろさ」

に変わってしまいます。

 同時に、これを、

 「いかに明らかにし、みんさんに知っていただくか」

 この思いも過るようになります。

 「やはり、これは本物であり、宝物である。これに出会てよかった!」

 2つ目の知的興奮の坩堝のなかで、徒然に光マイクロバブルに思いを重ねることができたようです。

 これは、新たに発足した大成研究所にふさわしい、そして、その明察を深く広げていくべき課題ではないかと思います(つづく)。

chuurippu
チューリップ(大成研究所の前庭にて)