本日は沖縄慰霊の日、平和の礎では記念式典が行われていました。
テレビにおいても、その様子が報道され、翁長知事の後に、宮古高校3年の上原愛音さんによる詩(『誓い~私たちのおばあに寄せて』)の朗読がありました。
沖縄県内約1200通の応募の中から選ばれた詩だけあって、その朗読は感動と涙を誘うものでした。
原稿なしで、しっかり練習したのでしょう。透き通った張りのある声で式典会場のみなさんの心をぐっと捉えていました。
その詩の内容もすばらしく、おじい、おばあの戦争体験の話から、「もう、そのような心配はしなくていいのだよ」と訴える主張は涙を誘起させるものでした。
「ここに誓おう。私は、私たちは、この国は、この世界は、きっと愛おしい人を守り抜くことができる。この地から私たちは、平和の使者になることができる」
それに引き換え、その次の報告者は例によって原稿を棒読みするだけで、その合間に参加者を見つめて認識を共有しようとする姿すらありませんでした。
結果的に、その前の女子高校生の引き立て役でしかなかった、これも日本と沖縄の現実というものでしょうか。
先の沖縄戦で亡くなった人々は約24万人、これは当時の人口の4人に一人の割合です。
ですから、6月23日、すなわち沖縄戦が終結した日は、ほぼすべての人々が、その御霊の慰霊を行うことに関わるそうです。
私の関係では、うるま市において相棒とその友人(うるま市在住、昨日の記事に出てきたYさん)による慰霊の日コンサートが開催されました。
会場は、うるま市民芸術劇場「あかりホール」、開演の30分前から満席に近くなり、最後にはかなりの数の立見が出るほどでした。
満席は360名だそうで、最終的には、それに近い観客数を得ていたのではないかと思います。
第1部は、Yさんと相棒が4曲ずつ歌いました。
慰霊の日に因んで、祈りや平和を願う歌が披露されました。
そのなかには、「レクイエム」、「アベマリア」、「7月のアルバム」、「1本の鉛筆」などがありました。
3番目の「7月のアルバム」は戦禍で無くしたアルバムを思い起こして、記憶の中で開いて昔を偲ぶ歌であり、その思い出が浜に咲く浜昼顔の葉が揺れる様が美しく描かれています。
4番目は、広島の平和音楽祭で歌われた曲で、同じく原爆で夫を亡くされた方が、夫を愛おしく振り返る歌です。
これらが伏線となり、一部の最後は、組曲「原爆の子百合子」でした。
これは、17カ国で放映された「聞こえるよ母さんの声がー原爆の子・百合子ー」を題材にして作られた組曲であり、その初演は1987年(山口県周南市)であり、じつに30年ぶりに、こんどは沖縄のうるま市で再演されることになりました。
私の相棒は、この曲の誕生から関わってきましたので、今回も、そのソリストとして登場しました。
原爆の子・百合子さんは、お母さんが広島原爆を受けたときに、お腹の中に3カ月の状態でいました。
その後無事出産はなされたものの、「原爆小頭症」と呼ばれ、知能は2歳のままで留まるという病気に苛まれつづけました。
お母さんは、百合子さんを出産した後にしばらくして亡くなられ、百合子さんは、理髪店を経営していたお父さんによって育てられました。
百合子さんは、岩国市の小さな理髪店の隅に置かれた椅子に座っていて、コーヒーを飲むのが一番の楽しみだったそうです。
その後、お父さんも亡くなられ、百合子さんは、今は一人になってしまいましたが、御存命と聞いています。
「今日のソロは、いつになく力が入っていましたね?」
「そうです。原爆、そして原発事故に会われたみなさんのことを考え、その思いや怒りを込めて歌いましたよ」
「そうだろうね、どうりで、いつもと違うと思ったよ」
二部では、Yさんと相棒が、それぞれの得意曲を歌われ、会場が益々盛り上がりました。
とくに、Yさんの「屋根の上にバイオリン弾き」より『もし金持ちなら』は、聴衆の笑いを呼び起こしながら名調子が繰り広げられました。
この名調子と動作に合わせて、一番前に座っていた子どもさんが笑いを発し続け、それにみなさんが耳を傾けるという驚きの珍しい現象が起こりました。
また、相棒の「ユー・レイズミー・アップ」の歌にも励まされたのではないでしょうか。
「あなたの支えがあるかぎり、私は強くなれる」
二部の最後は、沖縄の名歌「芭蕉布」と「月桃」の二重唱でした。
後者は、海勢頭豊さん作詞作曲の歌で、6月23日の沖縄戦終結の日に寄せた名曲であり、コンサートの最後を飾るにふさわしい曲でした。
月桃ゆれて 花咲けば
夏のたよりは 南風
緑はもえる うりずんの
ふるさとの夏
・・・・・・・・・・・
魔文仁(まぶに)の丘の 祈りの歌に
夏の真昼は 青い空
誓いのことば 今もあらたな
ふるさとの夏
・・・・・・・・・・・・
アンコールの最後の歌も、この月桃の歌でした。
300数十名の方々が起立して、この歌を唄うシーンは壮観であり、感動的でした。
そのうりずんコンサート、記憶に深く刻まれることになりました(つづく)
ゴーヤ
テレビにおいても、その様子が報道され、翁長知事の後に、宮古高校3年の上原愛音さんによる詩(『誓い~私たちのおばあに寄せて』)の朗読がありました。
沖縄県内約1200通の応募の中から選ばれた詩だけあって、その朗読は感動と涙を誘うものでした。
原稿なしで、しっかり練習したのでしょう。透き通った張りのある声で式典会場のみなさんの心をぐっと捉えていました。
その詩の内容もすばらしく、おじい、おばあの戦争体験の話から、「もう、そのような心配はしなくていいのだよ」と訴える主張は涙を誘起させるものでした。
「ここに誓おう。私は、私たちは、この国は、この世界は、きっと愛おしい人を守り抜くことができる。この地から私たちは、平和の使者になることができる」
それに引き換え、その次の報告者は例によって原稿を棒読みするだけで、その合間に参加者を見つめて認識を共有しようとする姿すらありませんでした。
結果的に、その前の女子高校生の引き立て役でしかなかった、これも日本と沖縄の現実というものでしょうか。
先の沖縄戦で亡くなった人々は約24万人、これは当時の人口の4人に一人の割合です。
ですから、6月23日、すなわち沖縄戦が終結した日は、ほぼすべての人々が、その御霊の慰霊を行うことに関わるそうです。
私の関係では、うるま市において相棒とその友人(うるま市在住、昨日の記事に出てきたYさん)による慰霊の日コンサートが開催されました。
会場は、うるま市民芸術劇場「あかりホール」、開演の30分前から満席に近くなり、最後にはかなりの数の立見が出るほどでした。
満席は360名だそうで、最終的には、それに近い観客数を得ていたのではないかと思います。
第1部は、Yさんと相棒が4曲ずつ歌いました。
慰霊の日に因んで、祈りや平和を願う歌が披露されました。
そのなかには、「レクイエム」、「アベマリア」、「7月のアルバム」、「1本の鉛筆」などがありました。
3番目の「7月のアルバム」は戦禍で無くしたアルバムを思い起こして、記憶の中で開いて昔を偲ぶ歌であり、その思い出が浜に咲く浜昼顔の葉が揺れる様が美しく描かれています。
4番目は、広島の平和音楽祭で歌われた曲で、同じく原爆で夫を亡くされた方が、夫を愛おしく振り返る歌です。
これらが伏線となり、一部の最後は、組曲「原爆の子百合子」でした。
これは、17カ国で放映された「聞こえるよ母さんの声がー原爆の子・百合子ー」を題材にして作られた組曲であり、その初演は1987年(山口県周南市)であり、じつに30年ぶりに、こんどは沖縄のうるま市で再演されることになりました。
私の相棒は、この曲の誕生から関わってきましたので、今回も、そのソリストとして登場しました。
原爆の子・百合子さんは、お母さんが広島原爆を受けたときに、お腹の中に3カ月の状態でいました。
その後無事出産はなされたものの、「原爆小頭症」と呼ばれ、知能は2歳のままで留まるという病気に苛まれつづけました。
お母さんは、百合子さんを出産した後にしばらくして亡くなられ、百合子さんは、理髪店を経営していたお父さんによって育てられました。
百合子さんは、岩国市の小さな理髪店の隅に置かれた椅子に座っていて、コーヒーを飲むのが一番の楽しみだったそうです。
その後、お父さんも亡くなられ、百合子さんは、今は一人になってしまいましたが、御存命と聞いています。
「今日のソロは、いつになく力が入っていましたね?」
「そうです。原爆、そして原発事故に会われたみなさんのことを考え、その思いや怒りを込めて歌いましたよ」
「そうだろうね、どうりで、いつもと違うと思ったよ」
二部では、Yさんと相棒が、それぞれの得意曲を歌われ、会場が益々盛り上がりました。
とくに、Yさんの「屋根の上にバイオリン弾き」より『もし金持ちなら』は、聴衆の笑いを呼び起こしながら名調子が繰り広げられました。
この名調子と動作に合わせて、一番前に座っていた子どもさんが笑いを発し続け、それにみなさんが耳を傾けるという驚きの珍しい現象が起こりました。
また、相棒の「ユー・レイズミー・アップ」の歌にも励まされたのではないでしょうか。
「あなたの支えがあるかぎり、私は強くなれる」
二部の最後は、沖縄の名歌「芭蕉布」と「月桃」の二重唱でした。
後者は、海勢頭豊さん作詞作曲の歌で、6月23日の沖縄戦終結の日に寄せた名曲であり、コンサートの最後を飾るにふさわしい曲でした。
月桃ゆれて 花咲けば
夏のたよりは 南風
緑はもえる うりずんの
ふるさとの夏
・・・・・・・・・・・
魔文仁(まぶに)の丘の 祈りの歌に
夏の真昼は 青い空
誓いのことば 今もあらたな
ふるさとの夏
・・・・・・・・・・・・
アンコールの最後の歌も、この月桃の歌でした。
300数十名の方々が起立して、この歌を唄うシーンは壮観であり、感動的でした。
そのうりずんコンサート、記憶に深く刻まれることになりました(つづく)
ゴーヤ
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