原爆という一瞬にして命を亡くした人々に対する、生き残った側の「負い目」、これをなかなか消し去ることはできませんでした。
映画「父と暮らせば」の主人公の美津江の場合は、目の前で死んだ父親と工場で働いていた友人たちに対する負い目でした。
竹造は、幽霊になって美津江の負い目を解消させようと、あの手この手を使って説得します。
そのかいもあって、頑なな美津江の思いは徐々に解れていき、そして美津江を恋する男性が現れ、美津江も彼に応えることで、幸せになって生きる意味を理解できるようになります。
そして、この物語は、原爆の災禍から自立しようとする美津江に希望を託して終わります。
一方、「母と暮らせば」においては、その負い目を一番重く残していたのが、浩二の婚約者であった町子でした。
原爆から3年の月日が過ぎ、浩二が生きていることをあきらめた主人公の伸子は、町子に向かって、「浩二のことは諦めて、他によい人を見つけ、同か幸せな人生を歩んでいただきたい」と念願するようになります。
伸子は、この説得を事あるごとに粘り強く続け、そのせいもあって町子は、時に反発しながらも徐々に受け入れるようになり、変わっていこうとします。
そして、その「きっかけ」を作ったのが、浩二が大切にしていたメンデルスゾーンのレコードだったのでした。
町子は、この浩二のレコードを借りて、職場の親しい友人たちとレコード鑑賞会を開催したところ、その参加者の一人が、そのメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲を聞いて涙を流し、こういったのでした。
「自分は、出征の前に、『もう二度と聞けない』と思って、このメンデルスゾーンの曲を聞きました。今、こうして、ここで、その曲を再び聞くことができるとは思いませんでした」
その彼は、戦地で片足を無くして帰ってきていました。
やがて町子は、その彼とともに、伸子のところに結婚をすることになったことを告げに来ます。
それは、伸子にとっても念願が叶い、うれしいことだったはずですが、なぜか、ここで、伸子は、浩二の仏壇の前で泣き崩れてしまいます。
この複雑な母親としての心境を、吉永小百合さんがみごとに演じられていました。
「父と暮らせば」の竹造の場合は、美津江が恋人を見つけたことで自分の役割は終わったと思って、もう出てこないと宣言して消えてしまいます。
ところが、伸子の場合は、生きた人間ですから、そうはいきません。
じつは、ここがこの映画の本当に悲しいところなのですが、伸子の場合、そこに待ち構えていたのは、「浩二の世界」だったのでした。
浩二も「もう出てこない」と伸子に告げますが、その意味を伸子は直ぐに理解することができませんでした。
浩二が通っていた長崎医科大学は、爆心地からわずか900m離れた丘の上にあり、そこでは浩二を含めて約900名が亡くなっていました。
伸子は、その浩二の行くへを探して、原爆投下の日から、その爆心地付近や浩二の行きそうなところを命がけで探し回っていました。
その際に、「第二次被爆」を受け、それが、伸子の身体を徐々に蝕んでいました。
映画では、そのことに一言も触れられていませんでしたが、伸子の身体は、浩二が現れ始めてから徐々に弱っていったのでした。
浩二との会話が弾み、幽霊の浩二と親しく会話をするようになればなるほど、「浩二のいる世界」、すなわち、天国に近づいて行っていたのでした。
この映画をよく観ていると、途中から、そのことに気づくようになり、二人が明るい会話をすればするほど悲しくなるという思いが溢れてきました。
ここが、山田映画のすごいところであり、醍醐味を覚えるところでした。
「これは、本当に悲しい母と子の物語だ!」
という思いが込み上げてきて、涙が止まらなくなってしまうのでした。
よくぞ、こんなに悲しい映画を山田洋治監督は作ったものだと思いました。
こんなに涙が出てきて止まらない物語を、吉永小百合さんと二宮和也さんは、よくぞ演じた、とも思いました。
最後のシーンでは、伸子は、「これから和也に毎日会える」と喜んで他界していきました。
この結末を、「父と暮らせば」の原作者の井上ひさしさんは、どのように思ったのでしょうか。
もともとの彼の構想は、広島原爆、そして長崎の原爆、最後は、「沖縄」という三部作だったようです。
その沖縄編は、どのようになるのか?
父、母と続けば、次は、「おじい」か「おばあ」か、それとも「島で暮らせば」なのか?
幸いにも、沖縄は、しばらく住んでいたところであり、その後も何十回と訪れているところですので、私も密かに、その構想を膨らませて、ゆかいに楽しみたいと思います。
井上ひさしさん、山田洋次さん、涙溢れた「父、母と暮らせば」をありがとうございました(この稿おわり)。
陽だまりのユリオポスデージー
映画「父と暮らせば」の主人公の美津江の場合は、目の前で死んだ父親と工場で働いていた友人たちに対する負い目でした。
竹造は、幽霊になって美津江の負い目を解消させようと、あの手この手を使って説得します。
そのかいもあって、頑なな美津江の思いは徐々に解れていき、そして美津江を恋する男性が現れ、美津江も彼に応えることで、幸せになって生きる意味を理解できるようになります。
そして、この物語は、原爆の災禍から自立しようとする美津江に希望を託して終わります。
一方、「母と暮らせば」においては、その負い目を一番重く残していたのが、浩二の婚約者であった町子でした。
原爆から3年の月日が過ぎ、浩二が生きていることをあきらめた主人公の伸子は、町子に向かって、「浩二のことは諦めて、他によい人を見つけ、同か幸せな人生を歩んでいただきたい」と念願するようになります。
伸子は、この説得を事あるごとに粘り強く続け、そのせいもあって町子は、時に反発しながらも徐々に受け入れるようになり、変わっていこうとします。
そして、その「きっかけ」を作ったのが、浩二が大切にしていたメンデルスゾーンのレコードだったのでした。
町子は、この浩二のレコードを借りて、職場の親しい友人たちとレコード鑑賞会を開催したところ、その参加者の一人が、そのメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲を聞いて涙を流し、こういったのでした。
「自分は、出征の前に、『もう二度と聞けない』と思って、このメンデルスゾーンの曲を聞きました。今、こうして、ここで、その曲を再び聞くことができるとは思いませんでした」
その彼は、戦地で片足を無くして帰ってきていました。
やがて町子は、その彼とともに、伸子のところに結婚をすることになったことを告げに来ます。
それは、伸子にとっても念願が叶い、うれしいことだったはずですが、なぜか、ここで、伸子は、浩二の仏壇の前で泣き崩れてしまいます。
この複雑な母親としての心境を、吉永小百合さんがみごとに演じられていました。
「父と暮らせば」の竹造の場合は、美津江が恋人を見つけたことで自分の役割は終わったと思って、もう出てこないと宣言して消えてしまいます。
ところが、伸子の場合は、生きた人間ですから、そうはいきません。
じつは、ここがこの映画の本当に悲しいところなのですが、伸子の場合、そこに待ち構えていたのは、「浩二の世界」だったのでした。
浩二も「もう出てこない」と伸子に告げますが、その意味を伸子は直ぐに理解することができませんでした。
浩二が通っていた長崎医科大学は、爆心地からわずか900m離れた丘の上にあり、そこでは浩二を含めて約900名が亡くなっていました。
伸子は、その浩二の行くへを探して、原爆投下の日から、その爆心地付近や浩二の行きそうなところを命がけで探し回っていました。
その際に、「第二次被爆」を受け、それが、伸子の身体を徐々に蝕んでいました。
映画では、そのことに一言も触れられていませんでしたが、伸子の身体は、浩二が現れ始めてから徐々に弱っていったのでした。
浩二との会話が弾み、幽霊の浩二と親しく会話をするようになればなるほど、「浩二のいる世界」、すなわち、天国に近づいて行っていたのでした。
この映画をよく観ていると、途中から、そのことに気づくようになり、二人が明るい会話をすればするほど悲しくなるという思いが溢れてきました。
ここが、山田映画のすごいところであり、醍醐味を覚えるところでした。
「これは、本当に悲しい母と子の物語だ!」
という思いが込み上げてきて、涙が止まらなくなってしまうのでした。
よくぞ、こんなに悲しい映画を山田洋治監督は作ったものだと思いました。
こんなに涙が出てきて止まらない物語を、吉永小百合さんと二宮和也さんは、よくぞ演じた、とも思いました。
最後のシーンでは、伸子は、「これから和也に毎日会える」と喜んで他界していきました。
この結末を、「父と暮らせば」の原作者の井上ひさしさんは、どのように思ったのでしょうか。
もともとの彼の構想は、広島原爆、そして長崎の原爆、最後は、「沖縄」という三部作だったようです。
その沖縄編は、どのようになるのか?
父、母と続けば、次は、「おじい」か「おばあ」か、それとも「島で暮らせば」なのか?
幸いにも、沖縄は、しばらく住んでいたところであり、その後も何十回と訪れているところですので、私も密かに、その構想を膨らませて、ゆかいに楽しみたいと思います。
井上ひさしさん、山田洋次さん、涙溢れた「父、母と暮らせば」をありがとうございました(この稿おわり)。
陽だまりのユリオポスデージー
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