ある意味で、その分水嶺を超えることは、当時の私にとって、小さくない出来事でした。

 すでに、述べてきたように、専科大学をめぐる論議は、当時の「国専協」の上層部において活発になされていましたが、それは現場の私たちとは無関係の雲の上でなされていたものでした。

 私は、当時の組合の責任者として、その動きに関する情報を集め、その分析に努めていました。

 また、その結果を、その都度、文書にまとめて発表もしていました。

 しかし、その批判的検討を行っているうちに、「それのみでよいのか?」という疑問を抱くようになりました。

 それは、いくら「雲上の論議」と批判を先鋭化しても、それだけでは「高専の現実は変わらない」と思うようになったことでした。

 何が足らなかったのか?

 高専の管理者も含めて、その多くの関係者にも関心を持っていただくには、どうすればよいのであろうか?

 折しも、その核心問題が試される機会が訪れることになりました。

 それは、当時の「日教組大学部」と「全専協」が共同で発行した『高専白書(第3次)』に関することでした。

 この白書は、高専の職場に関するさまざまな実情を調査し、集約したものであったことから、貴重な調査研究資料として、多くの高専関係者に重宝がられた文書のひとつでした。

 6年ぶりの発行という目新しさもあり、この白書の売れ行きは好調でした。

 しかし、この種の報告書については、最初に一定部数が売れてからは、その好調さを維持できず、売れ残りがかなり出るというのが、これまでの慣例でした。

 ところが、この白書においては、その事情が異なっていて、まず国専協の事務局が大量に購入を希望するという異例の事態が出現しました。

 それが発行されて3か月目には、初版が売り切れてしまい、追加で第2刷りを行うという、うれしいことまで起こりました。

 じつは、この白書の巻頭論文を私が執筆することになり、それにふさわしい内容にするかで、相当に悩み、考え続けたのでした。

 その論文題目は、「高専の民主的改革の課題と未来」であり、今思えば、これは、当時の私の器のサイズをかなり超えたものだったようです。

 このときの心境を今でもよく思い出しますが、この「主題を豊かに論じることができない」、そうであっても、専科大学騒動がとん挫した今、高専をどう変革し、どう発展させていくのか、その未来をどう描いていくのか、それらが私どもの目の前に突き付けられたことだったのでした。

 「すぐに答えを見出せないのであれば、それを考え抜くしかない。

 しかし、それは可能なのか?

 栄えある『高専白書』の内容を汚してはいけない。

 それにふさわしいものにする必要がある。

 この場に及んで、頼るのは自分だけしかない。

 そうであれば、自分で考え抜くしかないではないか。

 粘れ、粘るしかない!」

 こうして、悶々とする日々が続いたことを思い出します
(つづく)。
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