前回の記事から、だいぶ時間が過ぎ、間延びしてしまいました。

 ご関心の読者のみなさまには、深くお詫びいたします。

 新しい年を迎え、わずかですが、時間の余裕を持てたようですが、それも束の間のことでしょうか、明日からは、平常の忙しさの中に侵入していくような気がしています。

 さて、前回の記事において示された1980年台半ばから後半にかけての「専科大学騒動」のころに戻ることにしましょう。

 すでに述べてきたように、二度にわたる文部大臣による記者会見において「高専を専科大学」に名称変更するという目論見は達成されませんでした。

 それに立ちはだかったのは、「大学でないもの(高専)を大学とは呼べない」という内閣法制局の見解でした。

 高専には、研究機関という位置づけがなく、そのままでは大学とは見なせないという主張は、その高専の設置基準を改定しない限り無理な話だったのです。

 これが、専科大学構想が挫折し、とん挫した根本的理由でしたが、そこのことは、当時の関係者にとって余ほど罰が悪かったのでしょうか、広く明らかにされることはありませんでした。

 やがて、この指向はあっけなく霧散し、代わりに、そっと「専攻科を設置する」ことを検討することが、密かに付け加えられたのでした。

 このような経緯で、高専の専攻科が設置されることになったことは、当時の関係者以外に誰も知らないことであり、結果的には、その騒動が、思わぬところから「専攻科」設置をもたらしたといってもよいでしょう。

 ですから、専攻科の設置は、高専の将来のことをまともに検討して得られた措置ではなかったことから、そのことが、その後の高専と専攻科に小さくない影響を与えることになりました。

 また、「専科大学騒動」によってもたらされたもうひとつの重要なことは、高専と高専教育に関する自主的研究の流れが滔滔と形成され始めたことでした。

 ここからは、真に恐縮ですが、私のささやかな経験を基にしての見解を示すことにしましょう。

 当時、私は、高専の組合の全国組織である役員をしたいました。

 全国高専教職員組合協議会、それは略称で「全専協」と呼ばれていました。

 1988年は、私が工学博士の学位を取得した年ですが、丁度、全専協の教育研究集会が大分県の別府で開催されていました。

 「ちょっと悪いけど、どうしても行かねばならないところがあるので失礼します」

 といって、その学位授与式に参加したのが、その教研が始まる前日の役員会が開催されていた日のことでした。

 その晴れある式に出かけてみると、私の前の席には有明高専のS教授が座っておられました。

 かれとは、その後、ずいぶんと親しくなるのですが、この時は、まだ声をかけることができずに、その後姿を眺めるだけで終わりました。

 この時は、全専協の副委員長であり、役員のみんさんには、その真新しい学位記の賞状を披露することができました。

 当時、組合の中でよく言われていたのは、「組合活動をすると、学位なんか、取れるものではない」ということでした。

 とくに、非組合員からは、「組合に現をぬかして、まじめに研究をしていない輩が集まっている」という、いわれなき誹謗中傷が投げかけられることもよくありました。

 当時の私を振り返りますと、真に恥ずかしい未熟者でしたが、それなりに「組合活動をしても学位は取得できる」という信念を抱いていましたので、その授与式が組合の全国イベントと重なったことに偶然とは言えない意味を感じたことでした。

  また、私の席の前にいたS教授も、この教研集会に参加していて、私だけではないという思いを強めたことも忘れられない思い出となりました。

 その年の夏の北海道苫小牧総会において、私は、全専協の委員長に就任しました。
 

 その年の7月には、当時のF校長(T高専)の配慮もあり、私は教授に昇格していました(当時の役員の一人に松江高専のKさんがいて、この方が人事係の職員でしたので、かれが私のことをおもしろがって調べ、当時において、私は一番若い39歳の教授だといわれ、酒の席の肴にされました)。

 この時に、私が痛感したのは、単なる個別の高専における対応を考えるのではなく、全国的視野から高専の問題と今後に向き合うことでした。

 よく組合の会合で出てくる「私の学校では、〇〇である」という紹介のみでは、次の理由において済まされなくなりました。

 ①当時は、57あった国立高専の校長の全国組織であった「国立高等専門学校協会、『国専協』の略称」において高専の将来問題が検討されていたので、その動向を注意深く分析し、その内容を明らかにする必要があった。

 ②個別高専の事情をよく聞き、それらに共通して起こっていること、貫かれている普遍的な課題を明らかにする必要がある。

 この①と②を統一して総合的に考察していくことが、私どもに必要とされたことでした。

 この①の問題が、当時の「専科大学問題」であり、「騒動」だったのです。

 これも常道のことですが、相手の観方、意図を正しく分析し、必要な対抗策を考え、それを相手方にタイムリーに提示するとともに、そのことを味方にもアピールしていく、この行動パターンが情勢の緊迫度を増すごとに頻発していくようになりました。

 具体的には、国専協に対する要望書を出す回数が増え、それを出すごとに、その相手先の動向が微妙に変化し、その影響を受けていることが徐々に明らかになっていきました。

 この時、私も腹をくくったというのでしょうか、「私の役割と運命は、どうやら決まってしまった。これを貫いていこう」と、内心においては、密かに、そう思うことがしばしばありました。

 このような事情もあって、「専科大学騒動」は、私を含めて全国の組合のみなさんにとって非常に重要な問題を孕んでいました。

 その意味で、これは騒動で終わったにしても、その後には、今日に至るまでに小さくない影響を与える重要な問題がいくつも創生されたのでした。

 「あの時が分水嶺だった」

 分水嶺とは、山の峰の頂点に相当しますので、そこに至るまでは登りの坂道、それを過ぎると一気に下る坂道になります。

 この分水嶺とは何であったのか?

 次回は、そのことにやや深く分け入ることにしましょう(つづく)。
turumurasakitogoya201607
                     ツルムラサキの葉とゴーヤの花