時は、2045年〇月×日、秋も深まったころ、陽だまりのリビングにおいて、二人の会話が、小気味よく繰り広げられていました。

 「一番、思い出が深いのは、いつの時ですか?」

 「やはり、創生のころが一番だね。

 マイクロバブルというものが、この世には存在していなかったので、それを探究していく過程は、まことにおもしろくドラマチックだったよ。

 この過程においては、研究室に閉じこもるような研究では少しも役に立たず、まず、現場においてマイクロバブルのすばらしさが次々に実証されていきました。

 これが魅力的で、すばらしく、それに向かうことが私の研究スタイルにも合っていたのだと思うよ。

 それから、その技術とノウハウを一部だけに独占させず、大いに広めたことも、私なりには英断だったと思っているよ」

 「そうですか?普通の企業であれば、そんなことはしないでしょう」

 「その通りだけど、この技術を惜しげもなく世のなかに明らかにし、広めたことに関しては、大小さまざまな企業や関係機関から、

 『なんと馬鹿なことしたのか。企業としてはありえないことをした』

とよくいわれたよ。

 そのころ、わが国では『iPS細胞』が注目されていたけど、これとは、そのアプローチの仕方が、まるで違うと思っていました」

 「そうでしたね」

 「結局、マイクロバブルには、それにふさわしい『やり方、普及の仕方』があったのではないかと思います」

 「といいますと・・・」

 「最初の20年間で、その広大な土台を造ったのがよかったのではないでしょうか。

 あのころ、『富士山のように、その裾野が広がった』という表現をよく使っていました。

 この裾野ができて、それが巨大な土台となり、その上に、マイクロバブルの建物を造ることができるようになったことが、真に幸いでした」

 「富士山のような裾野、そういえば、この言葉は、私の記憶に残っています。それから、あのころは、NHKなどの放送も、よくなされていましたね」

 「そうだね、マイクロバブル技術の生成期には、NHKが、ニュース7で3回、おはよう日本でも6、7回ほど放送され、おかげで誰もがマイクロバブルのことを知るようになりました。

 ある時、四国の旅で電車に乗っていたら、前の席のおばあさんから、『あなた、昨日、京都の私の家の前を歩いていたでしょう』とまでいわれたことがありました。

 結局、よく聞いてみると、私がテレビで放送されていたことと間違えていたのですが、マイクロバブルのことが世間によく広がったことを示す一つのエピソードでした。

 そして、このようなことまでが起こるようになったことは、とても大事なことでした」

 「その放送日が決まると、親戚一同に知らせて、ワクワクしながらテレビを見ましたよ。今の、テレビには、そんなワクワクするような報道はなくなってしまいましたね」

 「それはそうだろうね。人間様よりも賢いコンピュータが、なにもかも取り仕切っているのだから、人間くさいというか、おもしろみがなくなってしまったようだね」

 「その始めの頃で、とくに印象に残っているのは何ですか?」

 「やはり、カキの味だね。

 その時までは、そんなに好きな食べ物ではなかったのだけど、広島湾や大船渡湾の筏や船の上で食べたマイクロバブル育ちのカキの味はすばらしかったね。

 今でも、その味を思い出すことができますよ」

 「私も、その味は忘れていませんよ。

 それで、最初のころのことは解りました。

 次に印象深いのは、いつのごろですか?」

 「それは、今から約30年前のころだね。

 高専を退職して、マイクロバブルの技術開発にひたむきに取り組もうとした矢先に、大病を患い、どん底の状態からの再スタートなってしまいました。

 しかし、結果的には、これがよかったのだから、人生というものはふしぎだね。

 ここで、『生まれ変わった』のだと思います。この30年を振り返ると、しみじみ、そう思うよ!」

 「そうですよ。私は、その病気に感謝しなければならないと、本気で思い、そういい続けてきましよ」

 「そうだったね。そういわれるたびに、その思いを確かめ、強めることができました。

 本当にありがたいことでした」

 人生には、必ず何度かの転機というものがあります。

 おそらく、これは、私の人生を変える、大きな、そして重要な転機になったようでした。

 しかも、それがマイクロバブル技術に対しても小さくない、重要な転機を与えることに結びついたのですから、これもふしぎなことでした。

 懸命に、そして粘り強く取り組んでいくと、人生が、好転に向かうことも、時には、ありうるのですね。

 次回は、その転機の具体的な内容に分け入ることにしましょう(つづく)。
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ラベンダーセージとチェリーセージ