高専における専攻科設置問題は、それまでの「専科大学騒動」の余波を受けたからでしょうか、

今から振り返っても、まことに不思議なできごとでした。

 わずかに、一行で、高専に「専攻科を設置する」という関係文書を見た時のことを思い出します。

 それ以外に、何の解説文もなく、その設立趣旨も述べられていませんでした。

 これは、ほとんど何の検討もなされないままに、文字通り「そっと決められた」といってもよいことでした。

 この時、専攻科の定員を本科の1割と定めたのも、「この程度であれば、大きな影響を与えることはないであろう」という判断が、どこかでなされたのだと思います。

 「なるほど、あれほどの騒動が起きた後だから、このような形でしか、先のことを示すことができなかったのであろう」

 通常であれば、事前に審議会やそれに類した会議、そして、当時の国立専門学校協会において、何らかの検討がなされるはずですが、それは行われていませんでした。

 もっとも、それまで専科大学設置を先導してきた方々が、こぞって高専を辞めていきましたので、その審議を行う主体形成ができていませんでしたので、結局は、このような事態になったのではないでしょうか。

 この専科大学の挫折から、この時期までは、文字通り高専が始まって以来の、文字通りの危機的状況が生まれていたといってよいでしょう。

 この危機的状況は、同時に、高専の将来は自分たちで考え、決めていくのだという「自主的目覚め」を引き起こしました。

 これを契機にして、自分たちの将来を上任せにせず、内発的に研究し、それを実現していこうという流れが形成されたことが重要でした。

 その結果、現場の高専関係者にとっては、あの「専科大学騒動」に続いての「寝耳に水」でしたが、そのことに右往左往することなく、その是非をめぐって大いに議論をする場が形成されていったのでした。

 それは、高専史上初の草の根の議論の盛り上がりであり、これが、その後の自主的研究の流れの発展に、重要な影響を与える契機となりました。

 私は、その議論の場の中心にいた一人でしたので、この当時、非常に重要な議論がなされたことを今でもよく覚えています。

 この議論の概要は、すでに前回の記事において次のように示されていますが、ここでは、その内容について、より詳しく分け入ることにしましょう。

  ①専攻科は、もともと高専の制度になじまない。高専は、「完成教育」を行うところであり、専攻科を持つことは、それが崩れることになる。  

  ②高専は、教育を行うところであり、本科に加えて、専攻科において、どのような教育を行うのか、それが明確にされていないではないか。

  ③本科だけでも忙しいのに、さらに専攻科教育するのは無理、忙しすぎて対応できない。

  ④教授への昇格基準が厳しくなって対応できない教員も出てきている。

 ①については、真に筋の通った意見であり、専攻科は、それまでの高専教育の在り方を根本的に改める次の要素を有していました。

 (1)本科5年で卒業するコースと専攻科を加えたコースという2つが生まれ、2つの教育課程が形成されるようになった。
 すでに、高専から大学への編入学生が3割を超えていたことから、当初に言われていた「完成教育」の形態は崩れていて、専攻科の設置は、さらにそれを進行させることになった。

 (2)高専5年で終わるのではなく、専攻科を含めた7年における教育システムをどう構築し、どう発展させるかが問われるようになった。

 しかし、この検討が十分になされていなかったので、上記の②~④の意見が出ることになったのでした。
 これらの問題は、単に専攻科の定員が1割増えるだけのことではなく、高専を根本的に変えて発展させていく要素を含んでいましたので、その議論も大いに盛り上がることになりました。

 ②の問題は、専攻科が実際に設置される直前になって、ようやく国立高等専門学校協会内に部会が設けられました。
 そこでの議論においては、高専の本科を維持しながら、同時に、専攻科も発展させるには、どうすればよいのか、に集中することになりました。
 すでに、高専の本科教育の目標は確立していましたから、それを変更することなく、さらに発展させることを可能にする教育目標は何なのか、これを明らかにすることが専攻科教育を規定することだったのです。

 ②の問題に関連して、ここで、当時のことを思い出してみましょう。
 周知のように、高専には、大学生や大学院生はいないので、高専で研究をするには、高専5年生が、その重要なパートナーになります。
 素直でやる気のある学生が多いのですが、なにせ、研究の経験がなく、未熟な点も多々ありました。
 その高専生と文字通り一体となって研究をしていくことによって彼らの卒業研究が出来上がっていきます。
 このスタイルは、大学院を持たないかつての大学学部の研究スタイルによく似ていて、その学生と教員の間には、手作りのホットな関係がありました。
 その大学生よりも2歳若い高専生と、」いわば西も東もわからない学生と手を取り合って卒業研究を進めていくのですから、ここにドラマもあり、苦難もありました。
 この「苦楽吉祥」に、高専の生命力と教育水準の高さが具現化されていました。
 しかし、この卒業生を世の中に送り出す時に、その喜びと共に、いつも一抹の寂しさを覚えていました。
 それは、「せっかく、ここまで育て上げても、あっという間に巣立ってしまう、なんと惜しいことか」という思いでした。
 「あの立派になった学生が、あと2年いてくれたら、どこまで成長しただろうか?」
 こう思うと、大学が「本当にうらやましい」と考え込むこともありました。
 ですから、②の課題は、高専教員自身に突き付けられたものであり、その観点から議論を巻き起こすことが非常に重要でした。

 ③については、その「忙しさ」の中身が問題でした。
 たしかに、高専は忙しい職場でしたが、「忙しい、忙しい」という方が、じつは、「忙しいとはいわない」方よりも「忙しくない」という事例も少なからずありました。

 ④これは良心的な方々からの発言でしたが、実際には、ほとんど研究らしきことをせず、教育をしている振りをして、正当ではない教授昇格を目指す方も少なからずおられましたので、その該当者にはとても困ったことのようでした。

 以上のように、高専専攻科問題は、高専に横たわっている構造的問題にまで深く関係して議論されるようになりましたので、この論議はいつもホットで生き生きしたものになりました。

 次回は、これらの議論のなかから、高専をもっと積極的に変えていこうという意見が出てきて、上記の意見と切り結ぶようになりましたので、いよいよ、その面白い話を紹介することにしましょう(つづく)。
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                          ホトトギスの花