「20年の長きにわたって存在してきた困難が、マイクロバブル技術で解決できた!」

 これは、
ある意味で、とても画期的なことでした。

 なぜなら、この解決によって、決して小さくない、そして狭くない可能性が生まれてきたからでした。

 じつは、この問題では、昨年のノーベル医学生理学賞を受けたO先生の事例が大変参考になりました。

 その後の自伝や最近の日経新聞における「私の履歴書」の記事などを参考にして、次のようなことを学ばせていただきました。

 ①家畜からヒトへ

 これは、その技術を適用しやすいところから始め、その発展によって、本来の目的であるヒトへと迫っていくという壮大な戦略を描き、実践していったことです。

 これをもっと普遍化して適用すれば、その現場に則して柔軟に対応して、可能なところから実績
を幾重にも重ねて、そのしっかりした土台を形成していくことが、何よりも重要であることが示唆されています。

 
②粘り強い実践的な研究力と幸運力

 お父さんの農家を引き継ぐ運命にあったOさんは、学校に行き始めて、すっかり勉強が好きになり、その姿を見た父親は、「好きな勉強をとことんさせよう」と思うようになります。

 この父親の決断がなければ、かれの人生はまったく違うものになっていたでしょう。

 かれも、貧乏な家庭であっても、とことん勉強に取り組むことができるようにしてくれた父の思いを、心からうれしく思い、それだけ真剣に勉強に励み、地元の大学に進学することができました。

 そして大学院、助手、研究所へと進みながら、コツコツと粘り強く研究力を養っていきます。

 そのひたむきな取り組みの成果が、やがていくつかの幸運を伴って実っていきます。

 その際、面白いことは、一見、不利と思われる選択を行うのですが、そこに遠望熟慮があり、その不利が有利へと変えられていったことでした。

 かれが、大学の助手を辞めて、北里研究所に入る事例は、その典型的出来事だったといえるでしょう。

 ③研究開発による特許の活用

 アメリカに留学した際に、多くの著名な学者と知り合い、交流を深めたことが非常に重要なことでした。

 そのなかに、製薬会社に転職した学者がいて、その会社との特許契約を結べたことが彼の運命を大きく変えていきます。

 その製薬会社は、その特許料を支払いにおいて、三億円の一時金で済まそうとしました。かれが所属していた北里研究所は、この提案を受け入れるように、かれを強く説得しました。

 しかし、かれは、それに従わず、長期にわたって特許料を得る契約を粘り強く要望し、それを実現させました。

 結果的に、その一時金の100倍近くに相当する特許料を得ることができ、その資金で、当時傾きかけていた北里病院を再建させたのでした。

 この成功は、かれの深謀遠慮が見事に貫徹された結果でもありました。

 ④強靭な体力と信念
 
 かれの優れた研究力は、農作業とスキーで鍛えた強靭な体力によって支えられていました。

 これに研究者としての信念が加わっていたのですから、まさに、「鬼に金棒」の状態にまで高められていました。

 当時、かれが共同研究をしていた東京大学には、高価な科学分析の装置がいくつもありました。

 これらを彼は夜になって使用し、徹夜するという生活を毎日平気で行っていました。

 いつしか、かれはそれらの装置を駆使できるエキスパートになってしまい、東京大学をはじめとするスタッフのみなさんから重宝がられるようになりました。

 これも彼に本領が発揮された典型的事例ということができるでしょう。

 これらは、O先生とのスケールとは、かなり違いますが、今回の私の事例においても大変参考になることでした。

 相手があることですから、そこに信頼の輪を広げ、高めることで、共に成功を重ねていくことが重要でした。

 以下に、私どもが得た教訓を示します。

 ①マイクロバブル技術は、世界に広がっていける資質を有しており、何も国内のことに拘泥する必要はない。

 むしろ外国で成功する可能性の方が高く、その事例は、これまでにいくつも生まれている。

 ②今回の困難解決問題は、最初から、その成果を世界中に広げることを目的としている。

 ③国内での展開には、さまざまな障壁があり、それを乗り越えようとしても、いくつもの無理がある。

 ④国内の市場は小さく、したがって、それを技術革新していく展望が生まれにくい。

 この事例は、今だ始まったばかりで、その第1ステップを超えたところにすぎませんので、これから、その推移を、しばらく見守ることになりますね(つづく)。
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                             松葉の先