2代の文部大臣が、二度にわたって記者会見まで行いながら、高専の「専科大学」への名称変更は、とうとう実現しませんでした。

 その理由は、高専の設置基準、すなわち、教育機関であることをそのままにして、それを「大学」

とは呼ぶことができない、ここを突破することができなかったことにありました。

 そんなことは露知らず、いくつもの高専で、校長が保護者に向かって「高専は、専科大学に名称変更することになりました」、「高専は、これで終わりです」とアナウンスされ、気の早いところでは、看板や封筒の書き換えも行われていました。

 ところが、いきなり、「それは難しくなりました」と現場に告げられたのですから、そこでのショックは大きく、当然のことながら、小さくない混乱が起こりました。

 「いったい、これは何であったのか?」

 後から考えれば、それは「騒動」でしかなく、その提起から結末までを、ある方が「専科大学騒動」と呼んでいましたので、私も、その通りだと思いました。

 「あれだけの騒動を起こしたのだから、これから、いったいどうするのであろうか?」

 これは、当時の私を含めて多くの方々が抱いていた疑問でした。 
 この専科大学を指向した当時の国立高等専門学校協会の指導層にとって、この専科大学の挫折感は小さくなく、自らの高専将来像を見失うという、いわば、「小さくない危機」を迎えるに至っていたのでした。

 そしたら、どうでしょうか。

 「高専に専攻科を設ける」という一行が、密かに文部省の方針として示されていました。

 この場合、「密かに」という意味は、「ほとんど何も、広く、事前に検討されずに」ということにありました。

 専攻科であれば、高専の設置基準を大きく変更する必要がなく、他の専修学校や短大から反対を受けずに、内部改革として済ますことができたからでした。

 一方で、この「騒動」は、高専の内部に「重要な変化」をもたらすことになりました。

 それは、自分たちの将来は、「自分たちで考え、自分たちで決めていこう」という「草の根の潮流」が髣髴(ほうふつ)として形成されてきたことでした。

 この流れは、最初は小さなものでしたが、しだいに大きくなり、だれも堰き止めることができないほどの大河になっていきました。

 これが、後に、高専という機関を自主的に研究し、その発展方法を、切磋琢磨して探究し合おうという潮流へと転化していくことになります。

 とくに、その流れが最初に加速した時期は、高専に専攻科を設置すべきかどうかの議論が起こったときでした。

 この議論は、民主的で進歩的な勢力になかでも、次のように真っ二つに分かれて展開されました。

 ①専攻科は、もともと高専の制度になじまない。高専は、「完成教育」を行うところであり、専攻科を持つことは、それが崩れることになる。

 高専は、教育を行うところであり、本科に加えて、専攻科において、どのような教育を行うのか、それが明確でない。

 なかには、本科だけでも忙しいので、さらに忙しくなって対応できない、昇格基準が厳しくなって対応できない教員も出てくるという意見までありました。

 ②専攻科は、高専を、今後、高度に発展させるには不可欠な機関である。高専本科でできなかった教育を、専攻科でさらに発展させることができる。

 専攻科生と本科生が協力して啓発しあう教育を実現することができる。

 高専を発展させようという内外の声がある。

 これは、単に危機観を示して、名称変更しようとした「専科大学」論議と比較して、はるかに豊かで本質的な要素を含んでいました。

 この①と②が、真正面から衝突しあうことで、大いに盛り上がり、非常に大きな関心を呼び集めるものとなっていきました。

 次回は、そのことにより詳しく分け入ることにしましょう(つづく)。

hotogisu

ホトトギスの蕾