早いもので、今年も10月を迎えました。

 このところ、時がめまぐるしく移り変わるなかで、すぐに対応できない自分に少々戸惑いながらですが、なんとか前向きに対応しようと思って、日々の生活を過ごしています。

 あの暑かった夏も終わり、今年の秋も一段と深まってきました。

 その間を振り返りながら、数日前に「最近のマイクロバブル技術を俯瞰して」と題しての記事を2回にわたって認めることができました。

 本日は、それらを踏まえて、その記事の内容の背後にある心境めいたものにやや深く分け入ってみましょう。

 この記事の書き出しでは、私にしては珍しく「楽観的な夢」を見たことを紹介しています。

 いつも懸案をいくつも抱えているせいか、私の夢は、何かに追いかけられていて、その夢に覚めて、「あぁ、夢でよかった!」と安心することが多いのですが、その日は違っていました。

 なぜでしょうか?

 夢は、何かの反映でしょうから、本当は、そこに、そのような現実があって初めて成り立つものです。

 「せっかく、めったに見ない、よい夢を見たのだから、そこには重要な何かがあるはずである。その大元を探索してみよう」

という気持ちになりました。

 これは、なんでも、よいことに結びつけようとする「プラス思考」のせいでしょうか。

 そのためには、夢さえ、それに用いてしまうということなのでしょうか。

 前の職場においては、マイクロバブル研究における最前線の隊列を担う一員でありたいと思っていました。

 そして、その退職後からの5年間においては、マイクロバブル技術の開発において、その激烈な競争下に身を置くことができれば幸いと考えてきました。

 ご周知のように、技術の最前線においては、熾烈な競争が繰り広げられることを常としています。

 まさに、それは「食うか、食われるか」のような世界といってもよいでしょう。

 食う側は、いかに食うかのアイデアを出すことに苦労し、食われる側は、いかに食われないようにするかの知恵を出すことを競い合います。

 しかも、そのアイデアや知恵が、非常識であればあるほど、その成就には時間を要しますので、それこそ、粘り強い、長い「闘い」が求められるようになります。

 その非常識が、非常識であればあるほど、それが、やがて常識になるまでに長い時間がかかることで、その変わり目が解らなくなってしまうこともあります。

 そして、その戦線が一つではなく、あたかも富士山のすそ野のように広かったら、どうなるでしょうか。

 ますます、その「非常識から常識」への変化も分散気味になってしまいますね。

 それをじっと俯瞰すると、それは、あっちでちらほら、こちらでちらほら、という様相になるのではないでしょうか。

 おそらく、それは、わずかな兆しとして、たまに、ちらほらと見えてくる程度のものなのでしょう。

 通常は、それで終わりなのですが、事の当事者においては、その俯瞰を通じて、なにか予感めいたものを覚えることがあります。

 「なるほど、そうだったのか。もしかしたら、今という時代が、そのような時なのかもしれない!」

 しかし、「それは、あなたの願望だけのことではないのか?」、「そうであれば幸いと思うだけのことではないのか」、一方で、このように、それを打ち消そうとする思いも過りますので、ここは真に微妙で、複雑な回路が存在しているようです。

 それでは、前置きは、この辺に留めて、より具体的な世界に分け入っていくことにしましょう。

 その第1は、はるか遠いところでの「出来事」です。

 富士山でいえば、その頂上付近の高さにあり、夏でも涼しいところです。

 こんなに高いところには、新たな工業が入り込む隙間はなく、昔ながらの農業で生計が成り立っていました。

 近年、この高地を生かした農業が注目され、その農作物を都会の人々が欲するようになりました。

 そこでの農業の規模も徐々に大きくなり、同時に、それを広めるルートも拡大していくことになりました。

 多くの人々が求めるようになるには、その品質保証が重要になります。

 いくら美味しくても、安全性が確保されないと、それを広く流通させることはできません。

 ここに、20年来の大きな問題が横たわっていました(つづく)。
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ヒガンバナ