2012年4月から、国東に移り住んで、ベンチャービジネス企業において開発部門を担当することになりました。
それ以来、足掛け5年の歳月が過ぎました。
この間、技術開発の最前線にわが身を置きながら痛感したことがありました。
それは、私が以前の職場において行っていた研究開発と、この5年の技術開発とでは、本質的に大きな差異があるということでした。
これは、ある意味で当然のことですが、そのことをよく理解していなかったことに気づき、大いに反省することになりました。
さて、その違いは、どこにあったのでしょうか。
それは、人々が求めているものを創り、人々の生活に役立つという視点をより明らかにすることでした。
読者から、それは、「ことさら特別のことではないではないか」という声が聞こえてきそうですが、じつは、そのことに奥深いものがあるのではないかと思うようになりました。
たとえば、先日、現地に装置を据え付けた2つの事例においては、それらの水産生物や野菜植物の斃死や枯れを防ぎ、成長させることを目的にしていました。
この場合は、その要請に対して「マイクロバブルが応える」という直接的なものでよいのですが、人間の場合には、そのように、ある意味で「単純な関係」で済むことではない側面があるようです。
幼少のころ、我が家にはテレビがなく、プロ野球中継を、みんなで、散髪屋さんや旅館によく見に行きました。
これは、私どもが求めていたものが、そこにあったからで、たとえば「神様、仏様、稲生様」といわれた快投を、みんなでワクワクしながら見て喜び合う楽しさがありました。
冷蔵庫は、どうでしょうか?
これも我が家にはなく、大学生や社会人になってからも、しばらくは、それが続き、結婚して家内が大きな冷蔵庫を買ったのを見て吃驚したことを思い出します。
「冷蔵庫とは、こんなに便利なものだったのか!」
ほとんど何も入っていなかった、その大きな冷蔵庫の扉を開けて、よく感嘆したものでした。
ところが、今はどうでしょうか。
そのような、かつて「三種の神器」は当たり前のように備えられ、互いの情報を交流し合う「アイフォン」まで出てきました。
かつて、私たちが求めてきたテレビや冷蔵庫、自動車や携帯電話を持つことが当たり前のようになりました。
豊かになることは、とても良いことですが、その反面、人々が求めるものを簡単に見出せないようになってきました。
その核心が、ますます解りづらくなってきたように思います。
そのせいでしょうか。
「鍵がかかる冷蔵庫」を見て、「なんだ、その程度のことか」と思っているうちに、冷蔵庫技術戦線において大きく遅れ、見た目はほとんど変わらない「高密度性能のテレビ」を売れると固執し、とうとう外国企業に身売りする企業まで出てくることになりました。
豊かさを求めて、それを実現してきたテレビ、冷蔵庫、自動車などの「革命的商品」を持つことで、その成熟が実現された世の中になり、そこから、新たな胎動を求める模索が始まろうとしています。
人々は、「第二次」の「革命的商品とは何か」を探求し、その実現を目指しています。
私の技術開発は、このような「時代の要求」を背景にしていましたので、それに応えることは容易なことではありませんでした。
同じ立場にいる多くのみなさんが、同じような思いでいることでしょう(つづく)。
それ以来、足掛け5年の歳月が過ぎました。
この間、技術開発の最前線にわが身を置きながら痛感したことがありました。
それは、私が以前の職場において行っていた研究開発と、この5年の技術開発とでは、本質的に大きな差異があるということでした。
これは、ある意味で当然のことですが、そのことをよく理解していなかったことに気づき、大いに反省することになりました。
さて、その違いは、どこにあったのでしょうか。
それは、人々が求めているものを創り、人々の生活に役立つという視点をより明らかにすることでした。
読者から、それは、「ことさら特別のことではないではないか」という声が聞こえてきそうですが、じつは、そのことに奥深いものがあるのではないかと思うようになりました。
たとえば、先日、現地に装置を据え付けた2つの事例においては、それらの水産生物や野菜植物の斃死や枯れを防ぎ、成長させることを目的にしていました。
この場合は、その要請に対して「マイクロバブルが応える」という直接的なものでよいのですが、人間の場合には、そのように、ある意味で「単純な関係」で済むことではない側面があるようです。
幼少のころ、我が家にはテレビがなく、プロ野球中継を、みんなで、散髪屋さんや旅館によく見に行きました。
これは、私どもが求めていたものが、そこにあったからで、たとえば「神様、仏様、稲生様」といわれた快投を、みんなでワクワクしながら見て喜び合う楽しさがありました。
冷蔵庫は、どうでしょうか?
これも我が家にはなく、大学生や社会人になってからも、しばらくは、それが続き、結婚して家内が大きな冷蔵庫を買ったのを見て吃驚したことを思い出します。
「冷蔵庫とは、こんなに便利なものだったのか!」
ほとんど何も入っていなかった、その大きな冷蔵庫の扉を開けて、よく感嘆したものでした。
ところが、今はどうでしょうか。
そのような、かつて「三種の神器」は当たり前のように備えられ、互いの情報を交流し合う「アイフォン」まで出てきました。
かつて、私たちが求めてきたテレビや冷蔵庫、自動車や携帯電話を持つことが当たり前のようになりました。
豊かになることは、とても良いことですが、その反面、人々が求めるものを簡単に見出せないようになってきました。
その核心が、ますます解りづらくなってきたように思います。
そのせいでしょうか。
「鍵がかかる冷蔵庫」を見て、「なんだ、その程度のことか」と思っているうちに、冷蔵庫技術戦線において大きく遅れ、見た目はほとんど変わらない「高密度性能のテレビ」を売れると固執し、とうとう外国企業に身売りする企業まで出てくることになりました。
豊かさを求めて、それを実現してきたテレビ、冷蔵庫、自動車などの「革命的商品」を持つことで、その成熟が実現された世の中になり、そこから、新たな胎動を求める模索が始まろうとしています。
人々は、「第二次」の「革命的商品とは何か」を探求し、その実現を目指しています。
私の技術開発は、このような「時代の要求」を背景にしていましたので、それに応えることは容易なことではありませんでした。
同じ立場にいる多くのみなさんが、同じような思いでいることでしょう(つづく)。
どっこい、こんなところでも生きています。
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