若き陶芸家森陶岳氏の情熱は、初の巨大窯づくりに結びついていきました。

 「とにかく、古備前が焼かれた巨大窯を造らなければ、そのベルトに手がからない」、これが、彼の正直な思いでした。

 その窯は、兵庫県相生に建設され、窯の総延長は46mになりました。

 なにしろ、安土桃山の時代以来のことでもあり、メディアからも大いに注目を受けることになりました。

 「はたして、上手く焼けているのだろうか?」

 この不安は、窯開けの日が近づくにつれて、ますます大きくなっていきました。

 「上手く焼けていなかったら、どうしよう?」

 このような不安と焦りが、次の問題を引き起こしてしまいました。

 それは、作品を十分に冷やさない段階で窯開けをしてしまったことでした。

 このため、せっかくの作品が破損してしまうという予期せぬことが起きてしまいました。

 また、その窯開けの前日に、密かに窯を開けて、独りで作品を確かめるということまで行ったそうです。

 それだけ、何が、どう焼けていたのか、そのことが気にかかっていたのでした。

 森先生は、この時のことを、私どものインタビューのなかで微笑みながら紹介しされていましたが、当時の若き森青年には、そのような余裕はありませんでした。

 このインタビューの際に、森先生は、思いもよらなかった「白い壺」が2つ出てきたことをさらりと仰っていました。

 そして、この2つの白い壺が出てきたことが、この時の巨大窯の成果であったことを強調されていました。

 この時、「備前焼きは、茶や黒色のはず、それなのに、なぜ、白なのだろうか?」

 こう思いながらも、その白の重要性には、私を含めて誰も気付いていませんでした。

 その2つの白い壺が出てきたことで、巨大窯を造った意味があった、このように成果を振り返り、窯が大きくなると、思いがけない焼き物が出てくる、これは人知が及ばない世界である、このことを先生は強く意識されていました。

 たった2つの壺だけで、巨大窯を造った意味があったというのですから、それが強く印象に残り、その後も、そのことを考え続けました。

 そして、森先生は、この巨大窯作りで、重要な何かが得られることを確信し、今度は場所を変えて、20m窯と50m窯を、今の瀬戸内市寒風に建設していきました。

 巨大窯づくりは、単なる思い付きで終わるのではなく、人生を賭けての巨大窯作りへと変化していったのでした。

 当然のことながら、周囲の作家とは異なる独自の方向に進み始めたのですから、そのことに好意を寄せる作家はいませんでした。

 同時に、独自に窯作りを進めたのですから、土地も建設費も、自分で確保しなければならない状況に置かれることになりました。

 「途方もないことを若き陶芸家が始めた」、「また、巨大窯を新たに造るらしい」、「大丈夫か?」、周囲の噂は、どんどん広がっていきました。

 しかし、このレベルの噂に、いちいち付き合っている余裕はありませんでした。

 ひたすら、2つの白い壺が出てきた可能性を信じて、森先生は、その巨大窯づくりに邁進していきました。

 そして、今回の85ⅿ巨大窯づくりを開始したのが1988年のことでした。

 以来約27年の準備を経て、その巨大窯の火入れ式が挙行されたのが、2015年1月4日でした。

 以来3か月余、夜通し火が焚かれ続けました。

 森先生も含めて6名のスタッフで三交替、睡眠時間はわずかでしたが、頑張り抜きました。

 すでに、森先生は77歳になっていました(つづく)。
kamanonaka
                       85m巨大窯の様子