このS東大名誉教授の日本高専学会における5回にわたる特別講演に関する資料や原稿をすべて読み返すことで、私なりのS教授に関する研究を開始することになりました。
S先生は、定年退官後に、「ながれだより」という自作の情報誌を月1回の割合で発行されていました。
その「たより」を主宰されたS先生の原稿は、毎回、おもしろく、そして読みがいのあるものでした。
その中でも、「原爆憎むの記」、「脳梗塞との闘い」などは、それこそ、心を震わせながら読ませていただきました。
さらに、論文「新世紀の流体力学は何を目指すべきか」(日本流体力学会誌『ながれ』、20(2001)、p.445-452)では、この100年の未来において「何をなすべきか」が、鋭く洞察されていました。
私は、これらの学習を重ねながら、その成果を血肉化していくために、その考察文を、このブログ記事において合計で14回にわたって更新してきました(「佐藤浩先生回顧(1)~(14)」)。
ですから、先生の家族の方と面会すると、これらの話が一挙に、それこそ迸るように出てきて、それこそ、ワクワクしながら、意気投合話が進展していきました。
「あの時、父は、こう思っていたのだと思います」
「そうですよね。おそらくそうだったと思います。それには、いくつも思い当たる節がありますね」
こんな会話を繰り返しながら、次のような質問を受けました。それは、真に聞いてみたかったことだったようでした。
「先生(わたしのこと)は、他の先生と違って、父に対する捉え方、考え方がまるで違っていますが、それはどういうわけでしょうか?」
「直の弟子、門下生でもないのに、どうして、そうなるのか、ふしぎでしょう。たしかに、私は、大変S先生にお世話になりました。そのことを、とてもありがたく思っています」
「この感謝の気持ちに、ある時から、新たな心境が加わることになりました」
「と、いいますと・・・?」
「それは、2004年の夏に、日本高専学会10周年記念の年会の際に、『S先生、100年間残るような熱い講演をお願いします』と、それこそ熱いお願いをした時のことでした」
「もちろん、先生は、この記念講演を快諾され、文字通りの熱のこもった講演をしてくださいました」
そして、その講演が終わったときに、「先生、これからは、弥次喜多道中の弥次さん、喜多さんのコンビを組んで講演をしていただけないでしょうか?」と尋ねると、先生は、即座に、「私が弥次さんなら、あなたは喜多さんですね」と返答されました。
この合意が契機となり、その後も4回の特別講演をなさっていただくことができました。
これは、ある意味で、その社会的要請に応えて「共に生きる」ということでもありました。
「そんな訳ですから、そのお弟子さん方とは、少し違ってきたのかもしれませんね」
「私も、そう思います」
「それから、あの2001年に示された先生の鋭く、大きな直観によって洞察された指針に則して、それを実際に達成していうことが大切ではないかと思っていますし、それとの格闘を続けています。その意味で、S先生は、今も私の中に登場してくる先生なのです」
「そこも、ずいぶん違いますね」
「やはり、その原点は、S先生の、あの『原爆憎むの記』に示された広島での爆心地での『何糞、負けてたまるか』という思いだったと思います」
こんな会話を繰り返しながら、互いに「ここちよく」、そして、イシモチカレイを心行くまで堪能し、そしてますますゆかいに話の花を咲かせることができました。
S先生も、この懇談を耳にされて、草葉の陰で、きっと微笑んでおられたことでしょう。
こんな具合で、ゆかいな一時の4時間があっという間に過ぎていました。
ーーー S先生、まだまだ、この道中は続きますよ。どうか、よろしくお願いいたします。
(この稿おわり)。
裏庭から見える竹藪と小城山
S先生は、定年退官後に、「ながれだより」という自作の情報誌を月1回の割合で発行されていました。
その「たより」を主宰されたS先生の原稿は、毎回、おもしろく、そして読みがいのあるものでした。
その中でも、「原爆憎むの記」、「脳梗塞との闘い」などは、それこそ、心を震わせながら読ませていただきました。
さらに、論文「新世紀の流体力学は何を目指すべきか」(日本流体力学会誌『ながれ』、20(2001)、p.445-452)では、この100年の未来において「何をなすべきか」が、鋭く洞察されていました。
私は、これらの学習を重ねながら、その成果を血肉化していくために、その考察文を、このブログ記事において合計で14回にわたって更新してきました(「佐藤浩先生回顧(1)~(14)」)。
ですから、先生の家族の方と面会すると、これらの話が一挙に、それこそ迸るように出てきて、それこそ、ワクワクしながら、意気投合話が進展していきました。
「あの時、父は、こう思っていたのだと思います」
「そうですよね。おそらくそうだったと思います。それには、いくつも思い当たる節がありますね」
こんな会話を繰り返しながら、次のような質問を受けました。それは、真に聞いてみたかったことだったようでした。
「先生(わたしのこと)は、他の先生と違って、父に対する捉え方、考え方がまるで違っていますが、それはどういうわけでしょうか?」
「直の弟子、門下生でもないのに、どうして、そうなるのか、ふしぎでしょう。たしかに、私は、大変S先生にお世話になりました。そのことを、とてもありがたく思っています」
「この感謝の気持ちに、ある時から、新たな心境が加わることになりました」
「と、いいますと・・・?」
「それは、2004年の夏に、日本高専学会10周年記念の年会の際に、『S先生、100年間残るような熱い講演をお願いします』と、それこそ熱いお願いをした時のことでした」
「もちろん、先生は、この記念講演を快諾され、文字通りの熱のこもった講演をしてくださいました」
そして、その講演が終わったときに、「先生、これからは、弥次喜多道中の弥次さん、喜多さんのコンビを組んで講演をしていただけないでしょうか?」と尋ねると、先生は、即座に、「私が弥次さんなら、あなたは喜多さんですね」と返答されました。
この合意が契機となり、その後も4回の特別講演をなさっていただくことができました。
これは、ある意味で、その社会的要請に応えて「共に生きる」ということでもありました。
「そんな訳ですから、そのお弟子さん方とは、少し違ってきたのかもしれませんね」
「私も、そう思います」
「それから、あの2001年に示された先生の鋭く、大きな直観によって洞察された指針に則して、それを実際に達成していうことが大切ではないかと思っていますし、それとの格闘を続けています。その意味で、S先生は、今も私の中に登場してくる先生なのです」
「そこも、ずいぶん違いますね」
「やはり、その原点は、S先生の、あの『原爆憎むの記』に示された広島での爆心地での『何糞、負けてたまるか』という思いだったと思います」
こんな会話を繰り返しながら、互いに「ここちよく」、そして、イシモチカレイを心行くまで堪能し、そしてますますゆかいに話の花を咲かせることができました。
S先生も、この懇談を耳にされて、草葉の陰で、きっと微笑んでおられたことでしょう。
こんな具合で、ゆかいな一時の4時間があっという間に過ぎていました。
ーーー S先生、まだまだ、この道中は続きますよ。どうか、よろしくお願いいたします。
(この稿おわり)。
裏庭から見える竹藪と小城山
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