2012年4月に、大分県国東市にやってきて4年が過ぎました。
この間、我が家の中庭を中心にしてマイクロバブル野菜作りの研究を開始しました。
この中庭の広さは50㎡、広さは十分ですが、総タイル張りですので、一切の土の類がありませんでした。
こんなところで、果たして野菜作りが可能なのか、私自身も心のどこかに不安が過ることもありました。
しかし、何でも自分でやってみないと満足できないという性格の私にとっては、この野菜作りは非常に魅力的でしたので、素人ながら、これに果敢に挑戦してみようと思いました。
開始当初は、装置が何もなく、あり合わせの水槽を用いて、しかも露天のままで雨露を防ぐことができない状態でした。
それでも、なんとか野菜作りを進めながら、失敗を乗り越えていくことができました。
これが第1段階であり、水槽においても、なんとか、マイクロバブル野菜を育てることができそうだということが解りました。
そのうち、約6㎡の簡易ビニールハウスを購入し、雨露をしのぐことができました。これが第2段階でした。
ここで、ハウス用の専用水路を作ることにしました。
大きな水槽では、野菜の成長にムラがあり、これを克服するためでした。
しかし、この水槽を作成中に、足に豆ができ、それが化膿して悪化し、あれよあれよという間に入院、手術となり、退院は約70日後の4月になりました。
当然のことながら、ビニールハウスでの野菜作りは中断したままでした。
この入院生活は、最悪の時に生死を彷徨うまでに至ったことから、真に生き返った心地での帰宅となりました。
そして命の大切さを痛感したこともあり、その野菜作りの再開は、同じ生物としての命に関わることとしての理解をより深めることに結びついていきました。
また、この再開は、ほとんど成功事例がない植物工場問題への調査研究にも分け入る契機となりました。
この問題では、大規模な植物工場でないと利益が得られないという、まるで「神話」のような指向がありました。
それは、植物工場から出荷される野菜が露地野菜との競争に置かれていたからでした。
露地野菜との比較において価格が決められることで、その利益は少なく、したがって、相当額の利益を得るには、それを大量生産するしかないと考えられていたからでした。
そのために、大規模な植物工場を造り、野菜の大量生産によって薄利多売で利益を得る、この方法しかない、そのために莫大な設備投資を行い、それを20年かけて回収するという、かなり無理なことが、まことしやかなき企図されていました。
私は、この植物工場が直面していた問題を目のあたりにして、これでは成功しない、根本的に、その問題点を解決していく必要があるのではないかと思うようになりました。
それは、小規模でも十分な生産額が得られ、採算性がしっかり確保できる方法があるのではないか、そのために、これをブレイクスルー方法はないか、それを模索してみようと思うに至りました。
はたして、この生産性と採算性の確保が可能な技術的ブレイクスルーを実現する方法はあり得るか、数々の失敗を繰り返しながらも、時には驚くような結果が出現したことに励まされながら、その可能性を自分で試してみようと思うようになりました。
これは、私にとって、ささやかですが、新たなマイクロバブルの世界に分け入ることになりました。
その4年間を振り返る丁度よい時期を迎えましたので、これからしばらくのお付き合いをよろしくお願いいたします(つづく)。
最初のビニールハウス(2012年12月22日、手作りの水路が左側にあるのみである)
この間、我が家の中庭を中心にしてマイクロバブル野菜作りの研究を開始しました。
この中庭の広さは50㎡、広さは十分ですが、総タイル張りですので、一切の土の類がありませんでした。
こんなところで、果たして野菜作りが可能なのか、私自身も心のどこかに不安が過ることもありました。
しかし、何でも自分でやってみないと満足できないという性格の私にとっては、この野菜作りは非常に魅力的でしたので、素人ながら、これに果敢に挑戦してみようと思いました。
開始当初は、装置が何もなく、あり合わせの水槽を用いて、しかも露天のままで雨露を防ぐことができない状態でした。
それでも、なんとか野菜作りを進めながら、失敗を乗り越えていくことができました。
これが第1段階であり、水槽においても、なんとか、マイクロバブル野菜を育てることができそうだということが解りました。
そのうち、約6㎡の簡易ビニールハウスを購入し、雨露をしのぐことができました。これが第2段階でした。
ここで、ハウス用の専用水路を作ることにしました。
大きな水槽では、野菜の成長にムラがあり、これを克服するためでした。
しかし、この水槽を作成中に、足に豆ができ、それが化膿して悪化し、あれよあれよという間に入院、手術となり、退院は約70日後の4月になりました。
当然のことながら、ビニールハウスでの野菜作りは中断したままでした。
この入院生活は、最悪の時に生死を彷徨うまでに至ったことから、真に生き返った心地での帰宅となりました。
そして命の大切さを痛感したこともあり、その野菜作りの再開は、同じ生物としての命に関わることとしての理解をより深めることに結びついていきました。
また、この再開は、ほとんど成功事例がない植物工場問題への調査研究にも分け入る契機となりました。
この問題では、大規模な植物工場でないと利益が得られないという、まるで「神話」のような指向がありました。
それは、植物工場から出荷される野菜が露地野菜との競争に置かれていたからでした。
露地野菜との比較において価格が決められることで、その利益は少なく、したがって、相当額の利益を得るには、それを大量生産するしかないと考えられていたからでした。
そのために、大規模な植物工場を造り、野菜の大量生産によって薄利多売で利益を得る、この方法しかない、そのために莫大な設備投資を行い、それを20年かけて回収するという、かなり無理なことが、まことしやかなき企図されていました。
私は、この植物工場が直面していた問題を目のあたりにして、これでは成功しない、根本的に、その問題点を解決していく必要があるのではないかと思うようになりました。
それは、小規模でも十分な生産額が得られ、採算性がしっかり確保できる方法があるのではないか、そのために、これをブレイクスルー方法はないか、それを模索してみようと思うに至りました。
はたして、この生産性と採算性の確保が可能な技術的ブレイクスルーを実現する方法はあり得るか、数々の失敗を繰り返しながらも、時には驚くような結果が出現したことに励まされながら、その可能性を自分で試してみようと思うようになりました。
これは、私にとって、ささやかですが、新たなマイクロバブルの世界に分け入ることになりました。
その4年間を振り返る丁度よい時期を迎えましたので、これからしばらくのお付き合いをよろしくお願いいたします(つづく)。
最初のビニールハウス(2012年12月22日、手作りの水路が左側にあるのみである)
コメント