教育者吉田松陰のすばらしさは、自らに偽りなく、思うことを語り、それを実行しようとした、すなわち、志を遂げようとしたことにあります。
この自らの志は、塾生にとっても同じことであり、その平等主義を示す言葉として、互いに、「僕は、僕たちは」という用語を初めて用いたことにも現れていました。
この僕たちは、江戸や京都における情勢について互いに知り得た最新情報をノートに記し、それを回し読むことにも現れていました。
そして何をなすべきかについては、みんなで議論し、さらにそれが発展して、みんなで野菜作りや大工仕事をすることにも繋がっていきました。
この僕たちにおいては、武士も町人、そして百姓も関係なく、みな平等に学ぶことができたのです。
ここに、みなが学び、成長し合うというすばらしい教育の場が出来上がっていったのでした。
この貴重な学び舎の伝統をどう受け継ぎ、どう発展していくかが真正面から問われている、これが現代社会の課題です。
地方での基幹産業である農林水産業が衰退しはじめてから、久しい歳月が流れています。
これに加えて、かつて高度成長を支えてきた日本の製造業も顕著な衰退を見せはじめ、ある著名な経済学者までが、「製造業が日本を滅ぼす」とまで声高にいうようになりました。
この地方と日本の現状における衰退と危機を打開するには、そこに新たなブレイクスルーの発芽を見出す必要があります。
同時に、その発芽をたくましく成長させて大樹へと育っていく具体的な事例を実際に示していくとが重要だと思っています。
さて、地域に根ざすことの重要性を深く認識させてたのが、小説「蜩の記」です。
作家葉室鱗の直木賞受賞作品であり、後に、小泉堯史監督によって映画化もなされました。
大分の小藩(杵築藩がモデルと思われる)の武士である主人公は、ある事件の責任を負わされて、藩主より10年間において藩史編纂を命じられ、それをやり遂げた後に、命を絶てと命じられます。
その命を受けて、国東と思われる農村において、その藩史の編纂を行いながら、地元の農民との交流を深めていきます。
その折に、重要な地場産業として育てる七島イの栽培と加工の指導を行ったのが、この主人公と、その家族であり、これによって農民の窮地を救うことができました。
七島イとは、かつては「琉球畳」といわれた畳表を作るイグサの一種でした。
丈夫で、肌ざわりがよく、イグサよりも上位の畳表として、古くは、寺院、日本武道館、学校の柔道場の畳に用いられてきました。
この七島イ栽培は、コメよりもはるかに採算性がよく、現在でも約17倍の経済効率を得ていますので、当時の地域のみなさんにとっても、この栽培と加工が、十分に暮らしの役に立っていたのでした。
ここに、七島イの栽培と加工に、知識階級としての武士の知恵と工夫が十分に発揮され、それが「地域に根ざす技術」として定着していったのです。
そして、江戸、明治、大正、昭和と、時が流れ、この七島イ栽培は、この国東半島で大きな進展が成し遂げられます。
最高時の生産量は、約500万枚畳といわれるまでに発展したのです。
ところが、その現在の生産枚数は、わずか約3000枚にまで落ちてしまいました。
なぜでしょうか。
あの「蜩ノ記」の時代には、先進技術として成立っていた産業が、今や風前の灯のように消えてしまう恐れが出てくるまでの状態に追いやられようとしています。
この蜩の主人公は、この現状を、どのように思われるのでしょうか。
時は流れてきていますので、きっと今の時代にふさわしい技術で、そしてやり方で、この再興をを願っているのだと思います。
周知のように、蜩(ひぐらし)とは、夏の終わりに、すなわち、七島イの栽培が終わったころになく虫のことであり、この声が夏の風と共に、この地を山から海へと渡っていきます。
「蜩ノ記」の物語は、未だ終わらず、それを「国東ノ記」として引き継ぎ、展開していくことが重要ではないかと思います (この稿おわり)。
七島イの栽培
この自らの志は、塾生にとっても同じことであり、その平等主義を示す言葉として、互いに、「僕は、僕たちは」という用語を初めて用いたことにも現れていました。
この僕たちは、江戸や京都における情勢について互いに知り得た最新情報をノートに記し、それを回し読むことにも現れていました。
そして何をなすべきかについては、みんなで議論し、さらにそれが発展して、みんなで野菜作りや大工仕事をすることにも繋がっていきました。
この僕たちにおいては、武士も町人、そして百姓も関係なく、みな平等に学ぶことができたのです。
ここに、みなが学び、成長し合うというすばらしい教育の場が出来上がっていったのでした。
この貴重な学び舎の伝統をどう受け継ぎ、どう発展していくかが真正面から問われている、これが現代社会の課題です。
地方での基幹産業である農林水産業が衰退しはじめてから、久しい歳月が流れています。
これに加えて、かつて高度成長を支えてきた日本の製造業も顕著な衰退を見せはじめ、ある著名な経済学者までが、「製造業が日本を滅ぼす」とまで声高にいうようになりました。
この地方と日本の現状における衰退と危機を打開するには、そこに新たなブレイクスルーの発芽を見出す必要があります。
同時に、その発芽をたくましく成長させて大樹へと育っていく具体的な事例を実際に示していくとが重要だと思っています。
さて、地域に根ざすことの重要性を深く認識させてたのが、小説「蜩の記」です。
作家葉室鱗の直木賞受賞作品であり、後に、小泉堯史監督によって映画化もなされました。
大分の小藩(杵築藩がモデルと思われる)の武士である主人公は、ある事件の責任を負わされて、藩主より10年間において藩史編纂を命じられ、それをやり遂げた後に、命を絶てと命じられます。
その命を受けて、国東と思われる農村において、その藩史の編纂を行いながら、地元の農民との交流を深めていきます。
その折に、重要な地場産業として育てる七島イの栽培と加工の指導を行ったのが、この主人公と、その家族であり、これによって農民の窮地を救うことができました。
七島イとは、かつては「琉球畳」といわれた畳表を作るイグサの一種でした。
丈夫で、肌ざわりがよく、イグサよりも上位の畳表として、古くは、寺院、日本武道館、学校の柔道場の畳に用いられてきました。
この七島イ栽培は、コメよりもはるかに採算性がよく、現在でも約17倍の経済効率を得ていますので、当時の地域のみなさんにとっても、この栽培と加工が、十分に暮らしの役に立っていたのでした。
ここに、七島イの栽培と加工に、知識階級としての武士の知恵と工夫が十分に発揮され、それが「地域に根ざす技術」として定着していったのです。
そして、江戸、明治、大正、昭和と、時が流れ、この七島イ栽培は、この国東半島で大きな進展が成し遂げられます。
最高時の生産量は、約500万枚畳といわれるまでに発展したのです。
ところが、その現在の生産枚数は、わずか約3000枚にまで落ちてしまいました。
なぜでしょうか。
あの「蜩ノ記」の時代には、先進技術として成立っていた産業が、今や風前の灯のように消えてしまう恐れが出てくるまでの状態に追いやられようとしています。
この蜩の主人公は、この現状を、どのように思われるのでしょうか。
時は流れてきていますので、きっと今の時代にふさわしい技術で、そしてやり方で、この再興をを願っているのだと思います。
周知のように、蜩(ひぐらし)とは、夏の終わりに、すなわち、七島イの栽培が終わったころになく虫のことであり、この声が夏の風と共に、この地を山から海へと渡っていきます。
「蜩ノ記」の物語は、未だ終わらず、それを「国東ノ記」として引き継ぎ、展開していくことが重要ではないかと思います (この稿おわり)。
七島イの栽培
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