この数日間で、2000年余の歴史を有するわが国の歴史は、大きく変わっていったのではないかと思います。

 それを山に例えれば、峠や頂きを踏み越えたことになります。

 これまでの登りが逆になり、下る一方になっていったことを意味します。

 また、それを海に例えれば、潮目が変わったともいうことではないでしょうか。

 この表現において最も解りやすいのは、満ち潮が、引き潮に変わっていく様であろうと思います。

 その「登り坂」と「満ち潮」に相当するものは、いったい何でしょうか?

 それは、本日のテレビにおいて幾度も放映されていた「だまし討ち」や「かまくら作戦」において鮮やかに示されています。

 あるドイツ法学者が、それらの行為の奥底にあるものは「反知性主義」だと断じていましたが、それらは、それがまったく的を射抜いていたことを見事に証明していました。

 そして、「下り坂」と「引き潮」は何を意味するのでしょうか?

 それは、若者たちが自らの意思で、自らの意見をしっかり発言できるようになったことに表出されています。

 この若者の発言は、決して少数に留まるものではありませんでした。

 その声が周囲の若者にこだまし、心を捉え、さらに多くの若者に次々と伝搬していったのです。

 また、その声は、若者のみに留まるものでもありませんでした。

 若者から若いママへ、ミドルへ、そしてオールドの心にも沁みていきました。

 さらに学者や弁護士、労働者、主婦などの心も動かしていったのです。

 だれが、この声とその伝搬、喚起と感動を予想したでしょうか。

 この大きな流れの形成は、「知性主義」の方々にとっても予想外の出来事でした。

 しかし、もっと予想外だったのは、反知性主義の方々でした。

 なぜなら、その思いもよらないことが起こったことが、その次には、かれらの内心を大いに震撼させたからでした。

 この若者たちの声は、自然に、しかし熱く、心の底から湧いてきたものでした。

 それゆえに強く、共感を集める大きく、鋭いものでした。

 真に賢く、知性あふれるものでした。

 この声は、上記の「だまし討ち」や「かまくら作戦」とはまったく異なる次元のものでした。

 これを「天地の差」というのではないでしょうか。

 この「かまくら」側からは、「連休が過ぎれば、みな忘れてしまうであろう」という声が聞こえてきていますが、それは「反知性主義」の浅すぎる憶測にすぎません。

 この憶測は憶測でしかなく、それが憶測で終わるかどうかは、その連休が過ぎると、すぐに解ることです。

 下り阪では、その地歩を簡単に止めることはできません。

 歩めば歩むほど、その足取りを速めて歩むことができるようになります。

 この数日間の出来事、そして、この鮮やかな対比は、この地歩を末永く進めさせる原動力となることでしょう。

 これは、100年どころか、1000年、2000年に相当する画期的な出来事ではないかと思います。

 その新たな歴史が本日から始まるのだと思います。

 その重要な変化がなされたことをよく考えてみる必要があります。

 その目覚めと新たな地歩の開始が可能になったことから、むしろ反知性主義に対しては、感謝をしてもよいのではないでしょうか。

 この歴史的転換を可能にした原動力は、この反知性主義をブレイクスルーし、次の新たな世界を切り拓く高らかなベルの音として、長く、こだまし続けることでしょう。
isigaki
                        強固な石垣と米、杉