相生での46mの大窯による実験においては、次の相反する結果が出ました。

 ①完全に冷え切らないうちに、窯を開けたために、大甕の半分以上がひび割れてしまった。

 ②思いもよらない「白備前」が出現した。

 この②の出来事は、森先生にとって、①の失敗を十分に補うことができるほどに重要なことでした。

 なぜなら、「白い備前焼き」は、かつて一度も、出現したことがなかったからでした。

 備前焼といえば、茶褐色や黒色であり、その常識を打ち破ることは誰もできなかったことでした。

 ーーー 巨大窯に挑戦しなければ、この白備前を手にすることはできなかった。やはり、自分が目指したことは間違っていなかった。

 このように、新しい確信を得ることができた森先生は、場所を瀬戸内市寒風に移して、新たな巨大窯づくりに挑戦するようになりました。

 以来40年、 人生そのものをかけた巨大窯づくりが次のように進められました。

 ①長さ20mの登り窯づくり

 ②長さ50mの登り窯づくり

 この40年における前半では、この①と②の比較がなされました。②のサイズは、安土桃山時代、いわゆる「古備前」と呼ばれている焼き物が焼かれた規模と同じでした。

 ①では、いくら工夫をして、何度焼いても、同じ焼き物しかできない、しかし、②においては、思いもよらない焼き物が、それを焼く度に、たしかに出現してきたのでした。

 しかし、その想定外の焼き物の数は少なく、そこに50m窯の限界があることを悟ることにもなっていきました。

 「こうなったら、もっと大きな窯を造るしかない」

 この決意を下したのは、今から27年前のことでした。

 以来、この巨大窯づくり(85m)を、それこそ私財を含めて何もかも、その建設のために投げ打ってきたのでした。

 ● 幅6m、長さ85m、半地下方式の登り窯の設計と実際の建設

 ● 本巨大窯に入れる2000を超える作品のための土づくり、とくに、高さ1.65m、直径1m弱の大甕づくり(約110個)。

 ● 窯焚き用の乾燥赤松の薪(10トントラックで400台分)、加えて、長さ3mの檜と竹の薪も膨大な量でした。


 これらの課題を、それこそ粘り強く、そして大胆に、こつこつと準備を進められてきたのでした。

 改めて、今回の85m巨大窯づくりにおける課題は、次のように設定されていました。

 ①「古備前」の焼き物を乗り越えることができるか?

 ②50m窯よりも、さらに想定外の「新備前」の焼き物を創出できるか?


 この課題を背負って、いよいよ、この巨大窯における窯焚きが、本年1月4日に始まりました。

 以来、1100℃を超える高温の窯焚きが、連日連夜行われました。この間の森先生の睡眠時間は1日わずかに3時間しかなく、その荒行に耐えて、この窯焚きを見守り続けたのでした。

 そして7月に火が完全に止められ、いまでは徐々に作品の窯出しが行われています。

 こうして、約30年に及ぶ巨大なプロジェクトの終着駅に到達できたのでした。

 聞くところによれば、その作品は予想以上のものだったようで、その成功は、新たな備前焼の時代が切り拓かれたことを意味していたのでした(この稿おわり)。
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85m巨大窯において焼かれている様子(再録、大甕の上部が見える)