ここで、放送は、森先生の経歴を辿って、若かりし頃に迫っていきます。

 なぜ、巨大窯に挑むようになったのか、そのルーツを明らかにするためです。

 森先生は、備前焼六姓(木村、金重、森、
寺見、大饗、頓宮)の窯元の家に生まれました。

 この六姓窯元とは、
江戸時代になって備前藩の藩主池田侯により御細工人制度ができ、かれらの窯元のみにおいて、備前焼を製造することが許可され、保護奨励されたのでした。

 名門中の名門の窯元に生まれながら、森先生は、その窯元を継ごうとはせず、大学を出てからは教師の道に進みます。

 きつくて、汚い、そして苦労が多いと感じていた陶芸作家の仕事を、自ら進んで選ぶことができなかったのです。

 しかし、その事情が徐々に変わり、陶芸の心が自然に湧いてきたのだそうです。

 若き陶芸作家の森陶岳は、自分の作品作りに邁進し、備前焼における新たな境地の開拓をめざします。

 
国立京都博物館に、当時の森陶岳作品が所蔵されていました。番組では、この若かりし頃の作品が紹介されていました。

 前衛作家として華々しく登場していた折の、その備前焼の壺を、その博物館の担当者が評価していました。

 「鋭いエッジを持つ壺の口、ゴマ模様、斜めに伸びた緋の線、いまでも前衛作品として通用するほどの『現代性』を有している画期的な作品です」


 次々に、新たな作品を世に問い始めた森先生でしたが、ある時、その活動がピタリと止んでしまいます。
 
 それは、古備前に出会い、触れることで生れてきた「古備前の壁」でした。

 それを乗り越えようとすればするほど、森先生の前に大きく立ちはだかったのが「古備前の芸術」だったのです。

 --- これをどう乗り越えていけばよいのか?

 最初で最大の壁、それが「古備前芸」だったのです。

 この壁は、森先生のみならず、明治以降の備前焼作家のほとんどすべてに対し立ちはだかったのでした。

 備前焼き作家で初代人間国宝になった「金重陶陽」も、その一人でした。

 瀬戸内市伊部は、備前焼用の土が獲れたことから、そこを中心に窯が開かれていくことになりました。

 ここには安土桃山時代から江戸、そして明治以降における備前焼の歴史が埋蔵されています。古備前とは、安土桃山から江戸時代までに造られた作品のことです。

 この古備前の窯焼き法は、その明治以降と決定的な違いを有しています。

 すなわち、前者においては、全長50m前後の大窯を用いての集団作業であるのに対し、後者においては、わずかに10m程度の小窯による個人作業での窯焼きがなされたのでした。

 金重陶陽は、いわば、この小窯において新たな備前焼きの新境地を切り拓いた名人でした。

 放送は、その彼が、ひそかに古備前と格闘していたことに分け入ります。

 「大きな窯で、大勢の人が参加して、そして長時間の窯焼きをしてきた古備前と、小さな窯で短時間に焼く自分の窯焼き作品には、大きな違いが出てくることは当然のことである」

 それゆえ、古備前を乗り越えることはできない、だから、古備前とは異なる新境地をめざすのである、これが彼のめざしたことでした。

 ところが、若き前衛作家の森陶岳は、この陶陽とは異なる道に進む道を選んだのです。

 古備前に「立ち向かい」、それを「乗り超える」には、同じように巨大窯を造り、その土俵で挑む方法しかない、これが彼の到達点だったのです。

 それは途方もない企てであり、彼の周囲からはさまざまな意見が出現しました。

 しかし、彼の父、森秀次は、この挑戦については何も反対せず、黙って見守っていました。

 それは、備前焼き作家としての「自立への旅立ち」を意味していたのでした(つづく)。 
巨大窯328
       85m巨大窯の横穴から内部を撮影、1000℃を超える高温で焼かれている