長谷川等伯の松林図屏風の絵に、なぜ魅かれるのか、その理由の二つ目は、決して恵まれていない生い立ちにあり、そこから這い上がっていったことに注目させられたことにあります。
等伯には、能登の仏像絵師に留まりたくない、京の都で絵師となって一旗揚げたいという希望がありました。
しかし、それは父の教えに背くことであり、いわば家業と故郷を捨てることでもありました。
「いつか、立派な絵師となり、故郷に帰ってみたい」
こう、いつも思いながら、京での修行と仕事に精を出していたのでしたが、その故郷に錦を飾ることは、なかなか実現できませんでした。
赤貧に喘ぎながらも、絵師としての力を、一歩、一歩と蓄えていくしか方法がなく、それには、苦労とともに時間も必要だったのです。
地縁、血縁、そして財力もなかった等伯にとって、唯一の頼りは「絵を描くこと」、そのものだったのです。
しかも、その相手は、権力者や商人ではなく、目の前にいた大衆そのものでした。
目の前の道を通り過ぎる大衆のみなさんが等伯の相手であり、その心を捉えること、その大衆に、自らの絵を愛されること、ここに等伯が定めた目標がありました。
この目標を達成するために、等伯は苦労を重ねます。
仏像の絵を描くといっても、その仕事がいくつもあり、それによって生活が十分に賄えるわけではありません。絵を描きたいけれども、その場所もなく、収入も得られない、このような状況が続いていたのでした。
「これでは食べていけない」、「こんな生活をしていては、立派な絵師にはなれない」、「なんとか、この状況から脱したい」、等伯は、このような思いで、必死で、その抜け道を探していました。
そんな折、等伯は京の道を歩いていて、ある店先で、通行人たちが、扇絵を買う光景を目にします。扇の絵をおもしろがって物色していた客の姿を見て、「これだ!」と思います。
ーーー この扇の絵であれば、自分にも描ける!
ここから、扇絵師としての仕事が始まり、それが発展して、自分で扇屋まで構えられるようになります。
それこそ、身体を張って渾身の力で扇の絵を描き、それを売ることで活路を見出していったのです。
しだいに、等伯の扇絵が評判になり、造るのが間に合わないほどの売れ始めました。そして、絵師等伯の名前も広く知れ渡るようになっていきました。
この経験で、等伯は、大衆が何を好み、何を求めているかを知り、いわば、絵師として大衆の中に深く分け入ることに成功します。
多くの大衆を味方にできる、こうなると、それに勝るものはありません。
等伯は、最も困難ではあるが、最も重要な大衆が求める「芸術の心」に迫ることができたのではないでしょうか。
21世紀になってから、この大衆が求める「重要な何か」が、各方面で解りづらくなっています。それは、かつてのテレビや冷蔵庫、そして自動車というモノの段階においては、真に解りやすく、その追及がさまざまになされてきました。
しかし、今の時代は、それがますます解らなくなり、見えづらくなっています。
最近、不振に陥って会社の存続が難しくなり、身売りの話まで出てきている会社の開発に関する新聞記事の特集を読みました。
テレビの大型化と高品質化に関することであり、その後者に賭けたことが、大きく会社を後退させたことだと指摘されていました。
この会社は、前者に関する技術を他社に売却し、その一方で高品質化を指向し、その生産をメイン工場で行おうとしていました。
しかし、結果的に、この高品質化テレビは売れず、そのことが会社不振の重要な原因になってしまいました。
その理由は、かなりの高品質化テレビができても、それが断トツに優れているわけではなく、見た目はほとんど変わらない、しかも価格が高ければ誰も買わない、ということに気付かなかったことにありました。
このようなことは、すぐにでも気付きそうですが、実際には、この高品質化路線が定まってしまうと、そこから外れることはできない、これが今日の社会で起こっていることなのです。
おそらく、等伯が描いた扇絵のすべてが、よく売れたのではなかったのだと思います。大衆が何を好み、何を愛そうとしてしていたのか、そのことについても十分に気付いていなかったのだと思います。
そのことを実際の扇絵を描いて売ることによって追究し、その体験の中から学んでいったのだと思います。
この大衆のなかからの「たたき上げ」、ここに大変な魅力があり、それが、あの松林図屏風にも具現化されている、私には、このように観え、ここに小さくない、そこはかな魅力を感じてしまうのです(つづく)。
万華鏡と呼ばれる紫陽花の一種です。最初は白色ばかりでしたが、しばらくして薄紫色のものが増えてきました。
等伯には、能登の仏像絵師に留まりたくない、京の都で絵師となって一旗揚げたいという希望がありました。
しかし、それは父の教えに背くことであり、いわば家業と故郷を捨てることでもありました。
「いつか、立派な絵師となり、故郷に帰ってみたい」
こう、いつも思いながら、京での修行と仕事に精を出していたのでしたが、その故郷に錦を飾ることは、なかなか実現できませんでした。
赤貧に喘ぎながらも、絵師としての力を、一歩、一歩と蓄えていくしか方法がなく、それには、苦労とともに時間も必要だったのです。
地縁、血縁、そして財力もなかった等伯にとって、唯一の頼りは「絵を描くこと」、そのものだったのです。
しかも、その相手は、権力者や商人ではなく、目の前にいた大衆そのものでした。
目の前の道を通り過ぎる大衆のみなさんが等伯の相手であり、その心を捉えること、その大衆に、自らの絵を愛されること、ここに等伯が定めた目標がありました。
この目標を達成するために、等伯は苦労を重ねます。
仏像の絵を描くといっても、その仕事がいくつもあり、それによって生活が十分に賄えるわけではありません。絵を描きたいけれども、その場所もなく、収入も得られない、このような状況が続いていたのでした。
「これでは食べていけない」、「こんな生活をしていては、立派な絵師にはなれない」、「なんとか、この状況から脱したい」、等伯は、このような思いで、必死で、その抜け道を探していました。
そんな折、等伯は京の道を歩いていて、ある店先で、通行人たちが、扇絵を買う光景を目にします。扇の絵をおもしろがって物色していた客の姿を見て、「これだ!」と思います。
ーーー この扇の絵であれば、自分にも描ける!
ここから、扇絵師としての仕事が始まり、それが発展して、自分で扇屋まで構えられるようになります。
それこそ、身体を張って渾身の力で扇の絵を描き、それを売ることで活路を見出していったのです。
しだいに、等伯の扇絵が評判になり、造るのが間に合わないほどの売れ始めました。そして、絵師等伯の名前も広く知れ渡るようになっていきました。
この経験で、等伯は、大衆が何を好み、何を求めているかを知り、いわば、絵師として大衆の中に深く分け入ることに成功します。
多くの大衆を味方にできる、こうなると、それに勝るものはありません。
等伯は、最も困難ではあるが、最も重要な大衆が求める「芸術の心」に迫ることができたのではないでしょうか。
21世紀になってから、この大衆が求める「重要な何か」が、各方面で解りづらくなっています。それは、かつてのテレビや冷蔵庫、そして自動車というモノの段階においては、真に解りやすく、その追及がさまざまになされてきました。
しかし、今の時代は、それがますます解らなくなり、見えづらくなっています。
最近、不振に陥って会社の存続が難しくなり、身売りの話まで出てきている会社の開発に関する新聞記事の特集を読みました。
テレビの大型化と高品質化に関することであり、その後者に賭けたことが、大きく会社を後退させたことだと指摘されていました。
この会社は、前者に関する技術を他社に売却し、その一方で高品質化を指向し、その生産をメイン工場で行おうとしていました。
しかし、結果的に、この高品質化テレビは売れず、そのことが会社不振の重要な原因になってしまいました。
その理由は、かなりの高品質化テレビができても、それが断トツに優れているわけではなく、見た目はほとんど変わらない、しかも価格が高ければ誰も買わない、ということに気付かなかったことにありました。
このようなことは、すぐにでも気付きそうですが、実際には、この高品質化路線が定まってしまうと、そこから外れることはできない、これが今日の社会で起こっていることなのです。
おそらく、等伯が描いた扇絵のすべてが、よく売れたのではなかったのだと思います。大衆が何を好み、何を愛そうとしてしていたのか、そのことについても十分に気付いていなかったのだと思います。
そのことを実際の扇絵を描いて売ることによって追究し、その体験の中から学んでいったのだと思います。
この大衆のなかからの「たたき上げ」、ここに大変な魅力があり、それが、あの松林図屏風にも具現化されている、私には、このように観え、ここに小さくない、そこはかな魅力を感じてしまうのです(つづく)。
万華鏡と呼ばれる紫陽花の一種です。最初は白色ばかりでしたが、しばらくして薄紫色のものが増えてきました。
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