このところインターネットの接続具合が芳しくなく、なぜか、しばしば中断に追い込まれています。昨夜も、このアクシデントが起こり、朝まで使用することができませんでした。
読者のみなさまにおかれましては、大変ご迷惑をおかけして申し訳ありません。
さて、長谷川等伯の松林図屏風のことについて4回目の記事を書くことにしました。しかも、3回連続で、それだけ、頭の中での存在感が大きかったからかもしれません。
以前にNHKのBS放送で、日本の代表的な絵画を選んでファン投票による順位を付ける番組がありました。
そこで、この等伯の図屏風が第1位になっていましたので、その時に、この作品のことを知りました。
墨だけで描いたこの作品が、なぜ、一番好まれるのか、どこが、すばらしいのか?
これらについて考えてみましたが、その時は、それで終わっていました。
それからしばらくの年月が過ぎ、この作品のことに関心を覚えたのは、安倍龍の芥川賞小説『等伯』を読んだ時でした。
この小説は、等伯が幼いころから絵を勉強し、仏像絵師になっていく様が紹介され、その後、故郷の能登を出て、京で本格的な絵の修業をするようになります。
このとき、等伯のはるか先を行き、大きく立ちふさがっていた壁が狩野派だったのです。
仏絵は描けるようになっていた等伯でしたが、それこそ何もない状態からの出発でしたので、何か事を起こすと、その前には、必ず狩野派が立ちはだかっていたのでした。
狩野派は、加納永徳を中心にした絵師集団であり、その絵を通じての事業化集団でもありました。これが、時の権力者と結びついて、いわば、お抱え絵師となっていました。
これに対し、等伯側は、少人数の個人集団であり、彼らが、狩野派に対抗するには、その影響が及ばない処において、絵そのもので勝負するしかありませんでした。
そこで、等伯が選んだのは、大衆が好む扇の絵を描き、それを売ることでした。この作戦が見事に当たり、大衆のなかで等伯は人気を集めるようになります。
また、この扇が売れたことで経済的にも基盤ができ、何人かの弟子たちも持てるようになりました。
この大衆における人気と経済力によって、徐々に世の中をリードしている重要人物との交流もなされるようになり、その代表格が千利休だったのです。
この利休の支援もあり、等伯の名声が高まり、とうとう大阪城において、狩野派との絵の競い合いをするまでにります。
このときに、数々の色彩豊かな絵を描きながら、最後に書いたのが、この松林図屏風の墨絵だったのです。
このときの経緯については、前回の記事において触れましたので、ここでは省略します。
だいぶ前置きが長くなりましたが、なぜ、等伯の松林図屏風が、すばらしくて、心に食い込んでくるのか、これについて率直な感想を述べさせていただきます。
最初に、この屏風図をテレビで見た段階では、これほどまでに、すばらしいとは思いませんでした。
ーーー なるほど、これが日本一愛されている絵画か、すばらしい!
という程度でした。
しかし、その絵画に至る等伯の幼き頃から、苦労に苦労を重ねてきた人生を知ることによって、そして時の権威に立ち向かいながら自分を磨いていった姿を理解することによって、さらに最後には、最高の権力者をも涙させ、反省させたことに、この絵の持つ力と凄さがあったことを認識させていただきました。
そこで、この彼の人生にける様々な出来事との共通項を、これから見つけていくことにしましょう。
その第1は、幼いころに、絵を描くことが大好きであったことです。等伯の場合は、父親の仏絵師を継ぐために絵の修業を行いました。
私には、そのような事情はありませんでしたので、小学校の図画工作が、それを習う時間でした。
たしか、小学校4年生のときでしたでしょうか。美術の教科書に掲載されていた絵の説明を、先生がなされていました。
そのなかの1枚が目に留まりました。
ーーー そうか、こんな描き方があったのか!
こう思いながら、絵の材料を変えて、しかも、よく遊んでいた校庭の樫の木を選んで、それを克明に描こうとしていました。なにせ、木の皮を1枚1枚描いていくのですから、相当な時間がかかりました。
まだ、半分程度しか描いていなかったのですが、先生が、それを選んで、みんなの前で示し、「これはいい絵だ!」といってくださいました。
私としては、完成していない絵ですから、それを見せられるのは恥ずかしいことでした。
しかし、反面うれしい気持ちにもなり、これで弾みがついたのでしょうか、俄然やる気が出てきました。
先生は、どこかの展覧会に出させようと思っていたようで、放課後も残って描くようにいわれました。
その木の前で、それこそ、尻が痛くなるまで座り込んで、この絵を描いた記憶があります。
たしか、この絵の完成までに3日を要したようで、その完成した絵の様子もうっすら思い出すことができます。
こうして、絵が完成し、どこかの作品展で、それが入賞したようでしたが、その記憶は少しも残っていません。
それ以来、絵とは、時間をかけて粘り強く描くものだということを理解し、絵を描くことがますます好きになっていきました。
「何を描こうか」、「どうやって描けばよいのか」、「ここは、何色にしようか」など、このようなことをよく思案していました。
仏絵師等伯の幼き頃の絵画力とは比較ができませんが、絵を好きになって描いたことについては、同じような経験があったといえるのではないでしょうか(つづく)。
梅雨に咲いた桔梗の花、薄紫が可憐。
読者のみなさまにおかれましては、大変ご迷惑をおかけして申し訳ありません。
さて、長谷川等伯の松林図屏風のことについて4回目の記事を書くことにしました。しかも、3回連続で、それだけ、頭の中での存在感が大きかったからかもしれません。
以前にNHKのBS放送で、日本の代表的な絵画を選んでファン投票による順位を付ける番組がありました。
そこで、この等伯の図屏風が第1位になっていましたので、その時に、この作品のことを知りました。
墨だけで描いたこの作品が、なぜ、一番好まれるのか、どこが、すばらしいのか?
これらについて考えてみましたが、その時は、それで終わっていました。
それからしばらくの年月が過ぎ、この作品のことに関心を覚えたのは、安倍龍の芥川賞小説『等伯』を読んだ時でした。
この小説は、等伯が幼いころから絵を勉強し、仏像絵師になっていく様が紹介され、その後、故郷の能登を出て、京で本格的な絵の修業をするようになります。
このとき、等伯のはるか先を行き、大きく立ちふさがっていた壁が狩野派だったのです。
仏絵は描けるようになっていた等伯でしたが、それこそ何もない状態からの出発でしたので、何か事を起こすと、その前には、必ず狩野派が立ちはだかっていたのでした。
狩野派は、加納永徳を中心にした絵師集団であり、その絵を通じての事業化集団でもありました。これが、時の権力者と結びついて、いわば、お抱え絵師となっていました。
これに対し、等伯側は、少人数の個人集団であり、彼らが、狩野派に対抗するには、その影響が及ばない処において、絵そのもので勝負するしかありませんでした。
そこで、等伯が選んだのは、大衆が好む扇の絵を描き、それを売ることでした。この作戦が見事に当たり、大衆のなかで等伯は人気を集めるようになります。
また、この扇が売れたことで経済的にも基盤ができ、何人かの弟子たちも持てるようになりました。
この大衆における人気と経済力によって、徐々に世の中をリードしている重要人物との交流もなされるようになり、その代表格が千利休だったのです。
この利休の支援もあり、等伯の名声が高まり、とうとう大阪城において、狩野派との絵の競い合いをするまでにります。
このときに、数々の色彩豊かな絵を描きながら、最後に書いたのが、この松林図屏風の墨絵だったのです。
このときの経緯については、前回の記事において触れましたので、ここでは省略します。
だいぶ前置きが長くなりましたが、なぜ、等伯の松林図屏風が、すばらしくて、心に食い込んでくるのか、これについて率直な感想を述べさせていただきます。
最初に、この屏風図をテレビで見た段階では、これほどまでに、すばらしいとは思いませんでした。
ーーー なるほど、これが日本一愛されている絵画か、すばらしい!
という程度でした。
しかし、その絵画に至る等伯の幼き頃から、苦労に苦労を重ねてきた人生を知ることによって、そして時の権威に立ち向かいながら自分を磨いていった姿を理解することによって、さらに最後には、最高の権力者をも涙させ、反省させたことに、この絵の持つ力と凄さがあったことを認識させていただきました。
そこで、この彼の人生にける様々な出来事との共通項を、これから見つけていくことにしましょう。
その第1は、幼いころに、絵を描くことが大好きであったことです。等伯の場合は、父親の仏絵師を継ぐために絵の修業を行いました。
私には、そのような事情はありませんでしたので、小学校の図画工作が、それを習う時間でした。
たしか、小学校4年生のときでしたでしょうか。美術の教科書に掲載されていた絵の説明を、先生がなされていました。
そのなかの1枚が目に留まりました。
ーーー そうか、こんな描き方があったのか!
こう思いながら、絵の材料を変えて、しかも、よく遊んでいた校庭の樫の木を選んで、それを克明に描こうとしていました。なにせ、木の皮を1枚1枚描いていくのですから、相当な時間がかかりました。
まだ、半分程度しか描いていなかったのですが、先生が、それを選んで、みんなの前で示し、「これはいい絵だ!」といってくださいました。
私としては、完成していない絵ですから、それを見せられるのは恥ずかしいことでした。
しかし、反面うれしい気持ちにもなり、これで弾みがついたのでしょうか、俄然やる気が出てきました。
先生は、どこかの展覧会に出させようと思っていたようで、放課後も残って描くようにいわれました。
その木の前で、それこそ、尻が痛くなるまで座り込んで、この絵を描いた記憶があります。
たしか、この絵の完成までに3日を要したようで、その完成した絵の様子もうっすら思い出すことができます。
こうして、絵が完成し、どこかの作品展で、それが入賞したようでしたが、その記憶は少しも残っていません。
それ以来、絵とは、時間をかけて粘り強く描くものだということを理解し、絵を描くことがますます好きになっていきました。
「何を描こうか」、「どうやって描けばよいのか」、「ここは、何色にしようか」など、このようなことをよく思案していました。
仏絵師等伯の幼き頃の絵画力とは比較ができませんが、絵を好きになって描いたことについては、同じような経験があったといえるのではないでしょうか(つづく)。
梅雨に咲いた桔梗の花、薄紫が可憐。
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