長谷川等伯の国宝「松林図屏風」を前にして、気付いたことがありました。
その第1は、この屏風の前のフロアには何もなく、それを奇異に感じました。ドイツのミュンヘンにある美術館に二度足を運んだことがありますが、ここには、常設のソファー型椅子があり、そこでゆっくり腰をかけて、ゴッホの「ひまわり」を観ることができました。
大分県立美術館のスタッフに、閲覧のための椅子のことを尋ねると、以前は、椅子を置いていたのに、今回の等伯の作品が来たので、それを取り除いてしまったとのことでした。
私であれば、この絵画の前に七島イの畳を敷き、秀吉や家康が、この絵画と対峙した様子を再現できるようにしてやると、話題騒然となったのではないかと思いました。
観客が多いから、その椅子を取り除いたとのことですが、単に、そのような問題だけで済ますにはもったいないような気がしたのは私だけでしょうか。
しかも、スタッフのみなさんは、椅子に座って監視されているのですから、これもおかしなことだと感じました。
どうやって、等伯と対峙し、等伯を理解するのかで、やや工夫が足りなかったのではないかと思いました。
第2は、この松林図屏風をじっくりと観るのは、会場の奥行が不足していたことです。
この会場は、縦長になっていて、その縦に長い方に沿って、この絵画が陳列されていました。そのため、この図屏風を観る奥行が無くなってしまい、その霧の効果が薄れてしまっているようでした。
私は、数メートルの位置からさらに後ろに下がって、壁に立ちながら、3つ目の位置から、この作品を眺めました。
より遠ざかるにしたがって、黒く塗られた松の遠景がさらに薄くなり、逆に、白色の霧がより浮き上がって観えてきました。
ーーー そうか、これが霧の効果なのか! こんなことまで等伯は考えていたのだ!
こう思いました。
しかし、この位置においても、その距離は短すぎ、さらに下がっていきました。すると、今度は対面の絵画のために引かれた立ち入り禁止線のところまで来てしまったのです。
この位置から屏風までは約12、13mはあったでしょう。目の前の絵画には背を向けて反対側の等伯の絵画を観ているのですから、そこを通過する方は、私の姿を見て奇異に感じたことでしょう。
じつは、この位置まで下がると、等伯の霧は、より一層松を包み込み、それこそ霧の中にわずかに松が観えるというふしぎで、すばらしい光景になっていたのでした。
しかし、残念ながら、このような位置から、等伯の絵を観る方は誰もおらず、この本物の霧の中の松の姿が隠れてしまっていたようです。
縦長の展示場の最奥部に、この図屏風を置けば、これらの問題は一挙に解決してしまいます。まず、近接部に七島イの畳を敷き、その後ろに椅子を置くのがよいと思います。
そして最後部を立ち見にすれば、これらの問題は一挙に解決することになります。両側は、歩いて、好きな位置で見れるようにし、多くの観客が入れる空間づくりも可能になると思います。
せっかくのことですから、等伯の気持ちに沿った演出を考えていただくとよりよかったのではないかと思います。
この等伯の絵画に触れて感動したこともあり、お店のコーナーで、この松林図屏風の色紙大の絵と絵葉書を買いました。
これらを机の前に置き、毎日眺めながら仕事をしています。等伯と一緒に、精神生活を送れる、その楽しみを得たことになります。
不遇な境遇で、辛酸を幾度と味わいながら、それでも、その壁をブレイクスルーしてきて、最後には、時の権力者と合いまみえるまでになった絵画力、ここには、加納永徳らとは異なる画道人生の姿がありました。
そして、その画道において行き着いた先は、墨で描くことで色を捨象し、故郷の松と霧であったことには、深い意味と必然があったように思われます。
その単純化されながらも、深い霧の中で松を描くことによって、それに自らの人生を投影させることによって、等伯自身が自らの心を洗わせたのだと思います。
心と人生における洗練、それを可能にした絵画の力が、秀吉の涙を流させたのです。
これには、深い意味があり、いつのまにか、小さいと思っていた図屏風の松が、眼前に広がる大きなものに変化していました。
日本一の絵画に接し、私の心も洗われていました(つづく)。
松林図屏風(左側半分)
その第1は、この屏風の前のフロアには何もなく、それを奇異に感じました。ドイツのミュンヘンにある美術館に二度足を運んだことがありますが、ここには、常設のソファー型椅子があり、そこでゆっくり腰をかけて、ゴッホの「ひまわり」を観ることができました。
大分県立美術館のスタッフに、閲覧のための椅子のことを尋ねると、以前は、椅子を置いていたのに、今回の等伯の作品が来たので、それを取り除いてしまったとのことでした。
私であれば、この絵画の前に七島イの畳を敷き、秀吉や家康が、この絵画と対峙した様子を再現できるようにしてやると、話題騒然となったのではないかと思いました。
観客が多いから、その椅子を取り除いたとのことですが、単に、そのような問題だけで済ますにはもったいないような気がしたのは私だけでしょうか。
しかも、スタッフのみなさんは、椅子に座って監視されているのですから、これもおかしなことだと感じました。
どうやって、等伯と対峙し、等伯を理解するのかで、やや工夫が足りなかったのではないかと思いました。
第2は、この松林図屏風をじっくりと観るのは、会場の奥行が不足していたことです。
この会場は、縦長になっていて、その縦に長い方に沿って、この絵画が陳列されていました。そのため、この図屏風を観る奥行が無くなってしまい、その霧の効果が薄れてしまっているようでした。
私は、数メートルの位置からさらに後ろに下がって、壁に立ちながら、3つ目の位置から、この作品を眺めました。
より遠ざかるにしたがって、黒く塗られた松の遠景がさらに薄くなり、逆に、白色の霧がより浮き上がって観えてきました。
ーーー そうか、これが霧の効果なのか! こんなことまで等伯は考えていたのだ!
こう思いました。
しかし、この位置においても、その距離は短すぎ、さらに下がっていきました。すると、今度は対面の絵画のために引かれた立ち入り禁止線のところまで来てしまったのです。
この位置から屏風までは約12、13mはあったでしょう。目の前の絵画には背を向けて反対側の等伯の絵画を観ているのですから、そこを通過する方は、私の姿を見て奇異に感じたことでしょう。
じつは、この位置まで下がると、等伯の霧は、より一層松を包み込み、それこそ霧の中にわずかに松が観えるというふしぎで、すばらしい光景になっていたのでした。
しかし、残念ながら、このような位置から、等伯の絵を観る方は誰もおらず、この本物の霧の中の松の姿が隠れてしまっていたようです。
縦長の展示場の最奥部に、この図屏風を置けば、これらの問題は一挙に解決してしまいます。まず、近接部に七島イの畳を敷き、その後ろに椅子を置くのがよいと思います。
そして最後部を立ち見にすれば、これらの問題は一挙に解決することになります。両側は、歩いて、好きな位置で見れるようにし、多くの観客が入れる空間づくりも可能になると思います。
せっかくのことですから、等伯の気持ちに沿った演出を考えていただくとよりよかったのではないかと思います。
この等伯の絵画に触れて感動したこともあり、お店のコーナーで、この松林図屏風の色紙大の絵と絵葉書を買いました。
これらを机の前に置き、毎日眺めながら仕事をしています。等伯と一緒に、精神生活を送れる、その楽しみを得たことになります。
不遇な境遇で、辛酸を幾度と味わいながら、それでも、その壁をブレイクスルーしてきて、最後には、時の権力者と合いまみえるまでになった絵画力、ここには、加納永徳らとは異なる画道人生の姿がありました。
そして、その画道において行き着いた先は、墨で描くことで色を捨象し、故郷の松と霧であったことには、深い意味と必然があったように思われます。
その単純化されながらも、深い霧の中で松を描くことによって、それに自らの人生を投影させることによって、等伯自身が自らの心を洗わせたのだと思います。
心と人生における洗練、それを可能にした絵画の力が、秀吉の涙を流させたのです。
これには、深い意味があり、いつのまにか、小さいと思っていた図屏風の松が、眼前に広がる大きなものに変化していました。
日本一の絵画に接し、私の心も洗われていました(つづく)。

コメント