長谷川等伯の国宝「松林図屏」を観たことで、先週からのブログ記事の連続でいえば、6つ目の「松」が揃ったことになりました。
じつは、2日前に、今度は「マツムラ」君から電話がかかってきました。
「ふしぎだねぇー、これで7つ目の松だよ!これはきっと何かよいことがありそうだ!」
こういうとマツムラ君は、うれしそうに笑っていました。
さて、本物の等伯松林図屏風を最初に観た印象は、「こんなに小さいものだったのか!」でした。
この小さな世界に、マツバヤシの大群が封じ込まれていました。
そこで次に、この屏風に可能な限り近接して、松の木の描き方を観てみようと思いました。ここで、吃驚したのは、松の葉の描き方が非常に単純化された一本の太線で描かれていたことでした。
すべての松の葉が、この太線のみで描かれており、その遠近は、墨の濃淡で分けられていました。
霧の中で、静かに林立する松を描くには墨だけで十分、このように思われたのでしょう。その濃淡が、前の松を浮き上がらせ、後ろの松を遠くへと導いているように観えました。
これを一晩で描いたという言い伝えの理由もよく解りました。
ここで思い出したのが、尾形光琳の紅白梅図屏風での梅の描き方でした。ここでの梅の花は単純化されて同じように描かれていました。
光琳は、この等伯の描き方に影響を受けたのかもしれませんね。
ーーー なるほど、松の葉は、このようにして描かれたのか!
短い太い線で、上に向かってピッと伸ばした葉の描き方には、植物が上に伸びようとする勢いが感じられ、それを通じて松の木の逞しさを感じることができました。
これぞ、幼い頃の等伯が見てきた、故郷能登の松の木だったのでしょう。
次に、数メートル離れて、この図屏風をじっくり観させていただきました。
おそらく、秀吉も、この距離から、これをよく眺めたはずです。
秀吉は、これを目にした時に、さぞかし吃驚されたことでしょう。そして、烈火のごとく怒り始めたのだと思います。
自分の命じた、そして望んだ豪華絢爛の絵とは異なっていたからです。「なんじゃ、これは!」と思ったはずです。
秀吉の周囲にいた家康や家来たちも、そう思ったはずです。
ここで、等伯も、自分の運命を悟ったはずです。「もう、思い残すことはない」、故郷の松を描き切った等伯は、きっと晴れ晴れとした気持ちにさえなっていたのではないかと思われます。
この数メートルの距離から見ると、松の木の濃淡がみごとによく観えてきます。この濃淡が微妙にすべて異なり、この差によって松の木の位置と霧の濃さとの関係が克明に表現されています。
「これは、墨でしか描くことができない世界だ!」
こう思いました。
さて、烈火のごとく怒りはじめた秀吉は、どうなったのでしょうか?
家康をはじめとして、その後ろで見ていた家来たちも、秀吉が静かになっていた異変に気付きはじめていました。
その秀吉は、一人で静かに、この屏風図を観ながら涙していたのでした。
これを「心が洗われた」というのでしょう。
かれは、戦いの中で幾千、幾万の斃死を殺し、殺され、尊い命を亡くしてきたことを思い出し、その戦のはかなさを感じて涙を流していたのでした。
能登の故郷の松の木と霧が、秀吉をやさしく包み込み、その思いを誘起させたのでした。
この図屏風の前でしばらく涙した後に、かれは等伯に感謝の意を述べました。この絵の力がそうさせたのです。
こうして、等伯とこの絵は命を救われたのでした。
もし、ここで、秀吉が涙しなければ、真に芸術の力を汲み取ることができていなかったら、等伯の命も、この絵の力も発揮できないままで終わっていたはずです。
そうであれば、この絵もこの世には存在せず、破り捨てられていたはずです。
このように思いながら、その霧の中の松の木をしばらく観察させていただきました(つづく)。

じつは、2日前に、今度は「マツムラ」君から電話がかかってきました。
「ふしぎだねぇー、これで7つ目の松だよ!これはきっと何かよいことがありそうだ!」
こういうとマツムラ君は、うれしそうに笑っていました。
さて、本物の等伯松林図屏風を最初に観た印象は、「こんなに小さいものだったのか!」でした。
この小さな世界に、マツバヤシの大群が封じ込まれていました。
そこで次に、この屏風に可能な限り近接して、松の木の描き方を観てみようと思いました。ここで、吃驚したのは、松の葉の描き方が非常に単純化された一本の太線で描かれていたことでした。
すべての松の葉が、この太線のみで描かれており、その遠近は、墨の濃淡で分けられていました。
霧の中で、静かに林立する松を描くには墨だけで十分、このように思われたのでしょう。その濃淡が、前の松を浮き上がらせ、後ろの松を遠くへと導いているように観えました。
これを一晩で描いたという言い伝えの理由もよく解りました。
ここで思い出したのが、尾形光琳の紅白梅図屏風での梅の描き方でした。ここでの梅の花は単純化されて同じように描かれていました。
光琳は、この等伯の描き方に影響を受けたのかもしれませんね。
ーーー なるほど、松の葉は、このようにして描かれたのか!
短い太い線で、上に向かってピッと伸ばした葉の描き方には、植物が上に伸びようとする勢いが感じられ、それを通じて松の木の逞しさを感じることができました。
これぞ、幼い頃の等伯が見てきた、故郷能登の松の木だったのでしょう。
次に、数メートル離れて、この図屏風をじっくり観させていただきました。
おそらく、秀吉も、この距離から、これをよく眺めたはずです。
秀吉は、これを目にした時に、さぞかし吃驚されたことでしょう。そして、烈火のごとく怒り始めたのだと思います。
自分の命じた、そして望んだ豪華絢爛の絵とは異なっていたからです。「なんじゃ、これは!」と思ったはずです。
秀吉の周囲にいた家康や家来たちも、そう思ったはずです。
ここで、等伯も、自分の運命を悟ったはずです。「もう、思い残すことはない」、故郷の松を描き切った等伯は、きっと晴れ晴れとした気持ちにさえなっていたのではないかと思われます。
この数メートルの距離から見ると、松の木の濃淡がみごとによく観えてきます。この濃淡が微妙にすべて異なり、この差によって松の木の位置と霧の濃さとの関係が克明に表現されています。
「これは、墨でしか描くことができない世界だ!」
こう思いました。
さて、烈火のごとく怒りはじめた秀吉は、どうなったのでしょうか?
家康をはじめとして、その後ろで見ていた家来たちも、秀吉が静かになっていた異変に気付きはじめていました。
その秀吉は、一人で静かに、この屏風図を観ながら涙していたのでした。
これを「心が洗われた」というのでしょう。
かれは、戦いの中で幾千、幾万の斃死を殺し、殺され、尊い命を亡くしてきたことを思い出し、その戦のはかなさを感じて涙を流していたのでした。
能登の故郷の松の木と霧が、秀吉をやさしく包み込み、その思いを誘起させたのでした。
この図屏風の前でしばらく涙した後に、かれは等伯に感謝の意を述べました。この絵の力がそうさせたのです。
こうして、等伯とこの絵は命を救われたのでした。
もし、ここで、秀吉が涙しなければ、真に芸術の力を汲み取ることができていなかったら、等伯の命も、この絵の力も発揮できないままで終わっていたはずです。
そうであれば、この絵もこの世には存在せず、破り捨てられていたはずです。
このように思いながら、その霧の中の松の木をしばらく観察させていただきました(つづく)。

松の葉は、上に伸びる太線で描かれているのみである。
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