長谷川等伯の国宝「松林図屏」は、まことにすばらしいものでした。

 今回は、この絵を観ることのみを目的にしていましたので、他の画家の絵や作品はほとんど素通りしました。

 心が動いていたからで、他の作品を見ると雑念が生まれるかもしれない、そして早く観たい、この一心で、そのコーナーに足を運びました。

 最初の印象は、この屏風を非常に小さく感じたことでした。すでに、テレビ映像で見ていたのですが、この時は非常に大きなサイズの屏風絵だと思っていました。

 深い霧の中で松が幾重にも浮かんで見えるようにした、等伯の絵画力の壮大さが、そのような大きな印象を覚えさせていたのだと思います。

等伯2
                     長谷川等伯 松林図屏風の左端 

 さて、この長谷川等伯については、高専卒の気鋭の作家である安倍龍太郎作の『等伯』に詳しく描かれています。

 かれは、この小説で芥川賞を授与されていますので、まさに、渾身の力作といえ、上下巻を一気に読んだことを思い出します。

 これによれば、等伯は、仏像絵師の家に生まれ、貧しいなかで仏像絵師としての修業を行っていました。ある日、京に上って、絵の修業を行おうと決心し、故郷の能登を出ていきます。

 扇に絵を描いて、それを売りながら生計を立て、絵師としての修業を積み重ねていきます。

 目指すは、狩野派の栄華であり、それと並ぶ絵師になることでした。

 しかし、この目標の実現は難しく、そのために、苦労に苦労を重ねていきます。

 そんな折、千利休と知り合いになり、その支援を受けることになります。等伯自身の作といわれている利休の2枚の自画像も残っています。

 ところが、その利休の支援を受けていたことが、今度は自分の命を危うくすることになっていきます。

 それは、秀吉によって利休の切腹が命じられたからでした。

 この危うさのなかで、等伯は大阪城の襖絵において、狩野派と対決し、その絵の競い合いを命じられます。

 最初は、秀吉好みの豪華絢爛の絵の対決でしたが、等伯は、最後の大勝負において、それこそ、自らの命を懸けて、この松林図屏風に取り組んだのでした。

 墨のみで描いた白黒絵ですから、これは秀吉の命に背くことを意味していました。

 それでも、等伯が何を描こうかと思案し、最後に脳裏に浮かんできたのは、故郷の能登にあった霧の中の松林の風景だったのです。

 父母に育てられた故郷の松林、霧の中で、この松林の大群が、浮かんでは消え、幼き頃を思い出させたのでした。

 等伯は、この屏風図を一晩で一気に描いてしまいます。

 これを書き終えた等伯は放心状態になり、霧の中にたたずむ故郷の松を思い出しながら、今まで一度も味わったことのない、安らかな平和な気持ちに浸っていました。

 「とうとう、故郷の松を描くことができた!」

 これで、秀吉を恐れることもなくなった、この無我の心境に分け入ることができたのです。

ーーー おそらく、秀吉は、これを見て、激怒することであろう。そして、こういうであろう。「墨絵を描けとはいっていない」

 等伯は、自らの命と人生のすべてをかけて、秀吉の閲覧に臨んだのでした(つづく)。