長い間、マイクロバブルの研究をしていると、すなわち、いつもマイクロバブルのことを考えて生活をしていると、私自身がマイクロバブルになったような気分に陥ってしまうことがあります。
思えば、微細な気泡の研究に約15年、運よく1995年にマイクロバブル発生装置を開発してから約20年、合計すると約35年にもなります。
最初のころに、共同研究をしていたある方の言葉が聞こえてきたことがありました。
「マイクロバブルには、片足しか入れない。いつでも、入れていない方の足で踏ん張って、抜けるようにしておくのがよい!」
じつは、初期の頃は、私自身がそうであり、行き詰ったら止めようと常々思っていました。それゆえ、この方の気持ちは痛いほどよく解りました。
しかし、それでは、マイクロバブルのことをよく理解できないのではないか、ましてや、マイクロバブルの気持ちも解らないのではないかと思っていたら、この方は、その通りになってしまいました。
当の私は、両手、両足をマイクロバブルの世界に入れて、さらに身体も、そして最後には頭までも入れてしまうことになりました。
これを「丸ごとマイクロバブル状態」といいます。
それは、その方がより確かであり、未知のものを見出す喜びと価値がより大きかったからでした。
また、当初の外野席からは、間接的に、次のような声も聞こえてきました。「NHKニュース7」に半年間で3回連続報道された頃のことです。
「マイクロバブルは、メディア受けはするが、学問にはならない」
「学問にはならない」という意味は、学会では取り上げられないほどの些末な現象、取るに足らない技術であるということのようでした。
これを私に直接言うのではなく、周りの学生たちに吹聴するのですから、質のよくない非難の類の話でした。
それから、時が流れ、この「浅はかさ」は誰の目にも明らかになってきました。
この非難者は、その自分の発言のことなど、とっくの昔に忘れてしまったでしょう。
それを泡沫発言、泡沫現象ということができるでしょう。
その泡沫の方々において、これから述べる、マイクロバブルの気持ちは、お解りにならないのだと思います。
「私はマイクロバブル」、この境地に分け入ることができる資格は、寝ても覚めてもマイクロバブルのことを何十年と考え続ける方のみに与えられるのであり、その泡沫は、マイクロバブルになることはできないのです。
もちろん、私はヒトというたんぱく質の塊であり、マイクロバブルは水と空気から発生するものですから、それらを等質、同等とすることには無理があります。
ところが、マイクロバブルのことを真に熱心に考えていると、時々、自分がマイクロバブルになったと思って考えた方がよい、解りやすい、という局面が出てくるのです。
これは真に便利で、マイクロバブルの本質を理解するのに役立ちます。
このとっておきの秘伝(?)の手法を少しみなさんに紹介しておこう、これが本記念シリーズの眼目なのです。
これを理屈で説明しても、なかなか理解できないことかもしれませんので、その実際を示した方がよいのではないかと思います。
前置きは、このくらいにして、その「私はマイクロバブルの世界」に分け入ることにしましょう。
まず最初は、マイクロバブルのお風呂の世界を覗いてみましょう。
入浴者が、マイクロバブルのポンプのスイッチをオンにすると、湯船のなかに、私の兄弟、姉妹が大量に生まれてきます。
私から見えるのは、その兄弟姉妹たちばかりで、相当近くに寄っていかないと入浴者を視野に入れることはできません。
「こうなったら、私どもの世界、独壇場なのです」
兄弟、姉妹たちは、やや時間が経過すると、小さくなって消えてしまいますが、その数の何倍もの量の兄弟姉妹たちが次々に生まれてきますので、私たちが居なくなることはありません。
常に、豊かにあり続ける、これが私どものマイクロバブル入浴世界なのです。
そこで、入浴者のことはさて置き、私どもの兄弟姉妹のことを語ることにしましょう(つづく)。
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ぜひとも、マイクロバブルの気持ちになっていただいて、これから一緒に考えていただければ幸いと思います。