マイクロバブル博士の「マイクロバブル旅日記」

本「旅日記」で、マイクロバブルの科学と技術に関する難しい情報をやさしく解説し、深く考えることによってマイクロバブルの物語をよりおもしろくします。また、それをゆかいに展開させていきます。これが、あたかも燎原の火のように、それこそ、国境を超えて、どこまでも広がり、国民生活と産業に深く分け入ることで、マイクロバブル社会が形成されることをめざします。

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2011年10月

本日で1300回の記念を迎えることになりました。その記念のブログ記事を認めさせていただきます。 新聞記事によれば、宮城県でカキの出荷が開始されたそうで、大変喜ばしいことです。しかし、その数は例年の一割程度しかなく、本格的な復興には程遠い状態とのようです。

先日、桑田佳祐さんの東日本大震災支援コンサートを拝見することができました。コンサートのテーマは、「明日へのマーチ」であり、同名の新曲も披露されていました。 その歌詞は、次のようなものでした。 遥かなる青い空 どこまでも続く道 希望胸に歩いてた あの夏

武蔵は、白い泡で評判の温泉にようやくたどり着き、久しぶりにゆっくりとお湯に浸かっていました。敏感な肌の持ち主の武蔵にとっては、この温泉は、すぐに肌にしみこみ、それとともに格別のここちよさが出てくることをすぐに悟りました。 あまりのここちよさに、ついうとう

出雲大社の特別参拝を済ませて、宍道湖の沿岸を西に向かいました。宍道湖の水質は昨年からさらに悪化し、緑色のアオコが多数発生したようで、シジミの幼生の定着率が非常に悪くなったそうです。 また、宍道湖の沿岸部では、砂地の上に葦原の部分が減り、水生植物が繁茂する

昨日の記事の「追伸」です。 この新型風呂に出会い、新たなマイクロバブル風呂の開発構想が生まれる契機となりました。 その理想の「マイクロバブル風呂の設計」を行い、実際に配備して試すことになりそうです。これを聞くと「八知」さんや「K2」さんほかみなさんがとて

早朝からの海での観測、カキ生育調査、視察団受け入れ、夕方からのささやかな交流会などのイベントを済ませ、夜遅く、採取したカキとともに(水槽に入れて)、宿舎に入り、その日が終わりました。 ところが、無理を言って何とか探していただいた民宿のつもりが立派なホテル

約3週間ぶりに、みどりこの「しらたまちゃん」と接する機会がありました。しらたまちゃんにとっても、初めての飛行機を利用した大旅行でしたので、いろいろな刺激を受けることになりました。 そのなかで、とても印象深いことがあり2つありましたので、まずそれらから紹介

黄昏の気仙沼を出て、車で大船渡に向かいました。今夜の宿泊も、お馴染みの下宿屋の「光潮荘」です。 すっかり暗くなって宿舎に着き、岩手名物の魚料理をいただくことができました。 翌朝は、よく晴れて絶好の観測日和でした。 すでに、水温が下がり始め、水質の浄化と

最近、マイクロバブル水、あるいはナノバブル水についての問い合わせがやや増えてきていますので、ここできちんと見解を述べておくことにしましょう。 山紫水明の言葉があるように、わが国には、古来、きれいで美味しい水があります。 出雲の「因幡の白ウサギ」伝説にお

「だいこくさまはだれだろう?」 映画「まあだだよ」の主人公である内田百閒は、悲痛な表情を浮かべて声を振り絞って唄いました。 戦後の小さな小屋みたいな住処を経て、我が家を建てた部屋で弟子たちを囲んでのささやかな酒宴でのできごとでした。 彼の脳裏には、因幡

「きれいな水で身を洗いなさい、そして蒲の穂綿で、その身を包みなさい」 大国主命が、皮をむかれて赤裸のうさぎにいったことです。この「きれいな水」とは何か、これが問題です。 世の中には、「きれいな水」はたくさんあります。しかし、その「きれいさ」は、微妙に異

「だいこくさま」といえば、「因幡の白ウサギ」の話が有名です。これに因んで、1905年に尋常小学校の唱歌として誕生したのが、「だいこくさま」でした。 これで、日本人のほとんどが、この歌を唄い、知れわたるようにもなりました。 この歌といえば、内田百閒をモデルに

出雲大社本殿の大屋根に設置する「勝男木」と「千木」の修繕を視察し、階下に向かいました。 その途中で、これまためったに見ることができない絵画がありました。それは、本殿の参門の前にある社の一部の板でした。 その板の裏側に、当時の職人の絵が密かに書かれていた

先ほどの本殿の大屋根と同じ高さの位置から、さらに上階に上り、今度は、その大屋根を見下ろすところまで案内されました。 まさに、大国主命が住む本殿を眼下に見下ろす位置まで達し、その大屋根の最上部に設置される部材の説明を受けました。 それは、「勝男木」と「千

都市という規模のことを考えると、これは個人の力がなかなか及ばないスケールのことになります。 早朝散歩の帰りに考えたことは、戦後の焼け野原のなかで自力で、このように家を立て、そして生き抜いてきた人々が、さらに独力で、コンクリートの家を建てるまでになってきた

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