この2週間、高専関係の学会からの依頼原稿の執筆に取り組んでいました。その合間に、本「忙中閑話」をひらめきました。余裕を持って、静かに語ることが,その四字熟語の意味のようです。

この2年、その構想を温め、さらに、調査と分析を繰り返して、その準備を行ってきた課題ですから、その論立て、分析、展開、そして提言という流れに沿って書いてみると、それが簡単ではなかったことが解りはじめてきました。

よく、理解の方法と叙述の方法は違うといわれますが、その通りで、その後者においては書いてみないと解らないという側面もあって、しかも、説得力を持たせるとなると、いろいろな工夫や筋道の明快さが必要とされるようです。

それから、頭という物はふしぎなもので、当初は、慣れない論理展開を迎えると、すぐ浅きに流れて、やれ音楽を聞いてみよう、将棋をしてみよう、挙句の果てには眠くなって、ちょっと休憩という具合になってしまいます。

これを世間では、「集中が足りない」というのだと思います。

しかし、そのようなことを繰り返しながら、取り組みを続けていると、必ず、締め切りが近づいてきて慌てるようになります。しかし、そうなると逆に集中力が増してくるのです。

真に、頭の中は因果なものです。

そして、「今日のブログは、どうしようか?」、「書くネタはあったのかな?」と首を傾げるようになります。


ところで、上記の論文書きの準備をしているときに、出会ったのが、ある経済評論家のインタビュー記事でした。

その方は、どちらかといえば、経済情勢を悲観的に把握されるようでしたが、その方が、今の日本には、「経済を引っ張っていく新しいエンジンが無くなってしまった」ということを、しきりに強調されていました。

「三本の矢」ではなく、必要なのは「エンジンである」というのです。

それから、かつての「エンジン」は、1990年代に、みな海外に進出してしまい、その利益を本社に送ってくるだけになっている、しかも、それにはわずかな税金しかかからない、そのために、巨額の内部留保が可能になるのだそうです。

しかも、その内部留保金は、主として株の売買に運用されていますので、新たな設備投資には向けられない、したがって国内の工場は、先細りか閉鎖に向かうしかないというのです。

さすが、著名な専門家だけあって、今の経済事情をよく理解されています。

しかし、それで感心ばかりをしているわけにはいきません。

なにせ、エンジンが無くなってしまったというのですから、これは穏やかな話ではありません。

しかし、その彼は、そのエンジンが何であるか、そして、それをどう見つけていくのかについては何も語りませんでした。

おそらく、すぐに、示せるような「新しいエンジン」を持ち合わせていなかったのだと思います。

それでも最後に、「里山かな・・・・」と仰られましたが、それのみで、その後に続くものは何もありませんでした。


この最後の言葉を消去法で推察すると、まず、大都会には、そのエンジンがないということになります。近くにあった工場も含めて、それらはとっくの昔に海外移転を完了させているからです。

次の消去部分は、山林部や海ですが、ここにも、日本経済をけん引するほどのエンジンはありません。

残るは「里山」地域ということになります。

ここに、新しいエンジンが存在しているのか、それが存在していないのであれば、どうやって見出し、育てるのかが問題になります。


おそらく、その具体的なエンジンの設計図が描けていなかったので、そのような発言で終わったのだと思います。

この問題は。全国の地方都市に立地している高専の今日的問題と関係していて、その未来をどうするかについて思いを廻らし、その「重要な何か」を見出せないままでしたので、この「一言」が重要なヒントになりました。

ーーー そうか、新しいエンジンが出現する可能性は、里山にあるのか。もしかしたら、これで論文の結論が書けるかもしれない。

こんな予感がしてきて、私の方は、俄然明るくなってきて、その結論部分の考察に取り掛かろうという気持ちになりました。

これを「未来へのヒント」というのでしょうね(つづく)。
小城さん
我が家から見える小城山です。